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あたくしも、何となく違和感を感じるんですよね。

先日、ネットニュースで「震災特番「視聴率全滅」が意味するもの ~日本人は冷たいのか?
それとも、見られない理由があるのか?」と言う記事の中で、震災特番が軒並み
視聴率が低迷したのを受けて、上記のタイトルになったのですが、「テレビを見ている人も、
震災復興が大切だと分かっています。でもたとえば、いま話題になっている保育園の
待機児童の問題は、お母さんたちにとっては本当に切実です。

震災直後は、みんな被災地のために、と心を一つにしましたが、自分が現実に
子育てや低賃金、介護の問題など目の前の問題に追い立てられてしまうと、
そんな気持ちはなかなか持てません」と言った解説も。

また、ある60代の主婦は「『目を逸らす』という態度と、『端から無関心』は違います。
無力感だったり、変わらない原発政策への絶望だったり、家族を喪った人を見るのが
辛いという気持ちだったり、そういうものから目を逸らして生きるのは、むしろ生きる術
なのではないでしょうか」とも。

ある民放ディレクターもこのように言っていました。
「『総括はまだ』と言いますが、そもそも総括などできないし、する必要もないと思います。
私はもし社に『震災特番を作れ』と命じられたらいい番組を作ろうと考えますが、
正直に言うと、自分から手を挙げようとは思いません。でもそのことで、自分を責めるのは
やめようと思っています」と。

また、作家で被災者でもある伊集院静氏は「何人かの知人に悔みの言葉を
言わねばならない。どうか笑って欲しいと思うが、胸の底に残る記憶はそんなに簡単に、
五年くらいで整理がつくものではない。」
しかし、と氏は言う。亡くなった人の死を不運と嘆くことは、逆に彼らの生の尊厳を
損なうのではないか、と。

〈 不運ではなく、そういう生だったのだ。

不運と思っては、哀し過ぎるではないか。

不運と思うな。そう自分に言い聞かせて、今日まで来ている。〉と。

あたくしもそう思うんですよね。確かにあの大震災は日本人(世界的にも)、
特に被災者の方たちに大変な恐怖とショックでした。けれども、それを何か儀礼的と言うか
大晦日のNHKの紅白のように恒例化する意味があるのか?と。それはまるで
8月15日なると「あの記憶を忘れない」だとか言って、戦後半世紀以上も経つのに
永遠と「戦争の記憶特番」なるものを、しかも高齢者を引っ張り出してやっているのと
同じで何となく違和感があります。なぜか?それはほとんど全てにおいてお涙頂戴や
責任追及、悲惨をクローズアップし、「これでもか、これでもか」と反省や悲劇を
見せつけようとしているように見えるからです。

記事の中でも「特に民放で顕著ですが、震災特番が、『24時間テレビ』化している。

3月になったから震災を扱わないといけない、という義務感で番組を作っているように
感じられます。それ自体は必ずしも悪いことではないでしょう。しかし番組作りが
マンネリ化し、安易なお涙頂戴や、3.11前後だけ被災地に足を運ぶコメンテーターが
復興の遅れを批判するという、同じような番組ばかりになっている」と。

きちんと事実関係を調べて、その後の被災者の生活やそれらを取り巻く復興や
日本や日本人の在り方を伝えるようにするには、あたくしは5年後、10年後とある程度
時間や年月を取って伝えた方が、より正確な詳細やその後の希望なんかが
見えて来ていいんじゃないのか?と思いますよ。

最後に、この記事を書いた人が、
「忘れたいわけではないが、忘れなければ生きていけない。そんな悲しみが、
人間の人生にはあるのだろう。」と締めくくっていたのが印象的でした。

追記 因みにあたくしは、「震災特番」なるものは見ていないし、チャンネルを変えます。

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