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「生き筋」に見るリーダー。(信長編)

どうも、こんにちは”ザビエル”です。

それでは今日から「その時、リーダーは”生き筋”を見た!」
の時間です。(勝手にタイトルを変えました)

本日は”織田信長”です。(尾張国、愛知県西部地方)

彼ほど「破壊と創造」を地で行った生き方をした人もいなく、
また、その死に様も壮絶だったので、いまだに人気武将ランキング
では、ベスト3に入っております。

織田信長は「武力を持って天下を統一する!」と言う”天下布武”と言う
明確なスローガンを持ち、そのためには様々な改革や時には”非道”とも
思えるような行動をしました。

彼の逸話は沢山ありますが、その中でも代表的なものを紹介します。
・鉄砲の特徴をいち早く取り入れて、従来の戦いかたを変えた。
(尾張の兵は弱卒と言われていたが、鉄砲の導入で覆した)

・それまで、ほとんどの武将たちは迷信や神社・仏閣の罰などを
恐れたいたが、「自分が神だ。」と言い、信長にはむかう神社・仏閣は
ことごとく破壊して、僧侶や女子供も容赦なく殺した。

・宣教師が持っていた地図や地球儀を見せて、「世界は丸いのです」
と言ったら、信長は即座に「理にかなっている」と理解した。

・日本で初めて黒人を側近にして、彌介(やすけ)と名乗らせた。

など、他にも392個ほどありますが、そろそろ本題に入ります。

信長公の代表的な”生き筋”が見えたのは、何と言っても
永禄三年(1560年)三月の、駿河・遠江・三河を領有していた
「今川義元公」を討ち取った”桶狭間の戦い”です。
(この時、徳川家康(松平元康)は”義元”の人質ですが家臣扱いでした)

この、今川氏は四万五千(最近では2万人ぐらいだとも)で、京都へ行き
自分が将軍になろうと(一説には、最初から織田領目的だったとか)、
大軍を率いて出張ってきました。

対する、信長軍はわずか二千。

常識で言えば城に篭城(ろうじょう)するか、降参します。
当然、家臣達はどっちかにするだろうと思っていましたが、
が、それをしないのが”信長の信長たる所以(ゆえん)”です。
なんと、信長はこの一大事の会議に「世間話」で終らせました。
(きっと、家臣たちは、”こいつは筋金入りのアホだがや”と思ったことでしょう)

しかし、信長は100%負けるとは思っていなかったと思うのです。

それは、幼少の頃から”うつけ(アホ)”と呼ばれながらも、
馬に乗って自分の領土を馬で駆け巡っていたので、
土地勘がバッチリと頭に入っていたからです。

で、「万が一にも勝てるとしたらどこだ!?」と思案していたに違い
ありません。現に一番槍をつけた者よりも、今川義元の情報を逐一知らせた
者を一番に評価しているのですから。(当時としてありえません)

なぜ、そうなったのか?それは信長は「今川軍が進入してきても
道幅が狭いので、団子状ではなく一列か二列で進んで来るだろう。」と。
そして「細長く伸びた大軍の真ん中あたりの”今川義元”のいる、
横っ腹に突っ込み敵の大将の首を獲り、一気にかたをつけよう!」と。

(現に、信長は義元軍に突っ込む時に、「他の者の首は捨ておけ!
狙うわ”義元の首”のみ!!」と言明していますので。)

その様子が”信長”の頭に鮮明に映し出されたのだと。
この時に”ピカッ!”と光ったもの、それが”信長”の「生き筋」が見えた
瞬間で、むろん戦に勝ったのもありますが、あそこで逃げないで決断をしたことが、
その後の信長”自身もそうですし、今の世にも伝えられる歴史上の人物になったのです。

この後、”信長”は二度のこのような一か八かの奇襲作戦は取らないで、
大軍での正攻法の戦い方をしたのでした。

本日はこれまで。

「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり
ひとたび生を得て 滅せぬ物のあるべきか」。

信長が今川義元との決戦にのぞむ前に、
舞った幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」です。

天正10(1582)年6月2日
本能寺で家臣の”明智光秀”の謀反(裏切り)にあい、炎の中で自刃する。
結局、遺体は見つからなかった。

明智光秀の謀反を聞かされた時の、信長が言った言葉は
「是非に及ばず」でした。(しかたがない。あるいは、あれこれ言ってもやむを得ない)

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