ブログ

記事一覧

また、今日もこの日が来たのか・・・・・。

あたくしは、その時上海月のキッチンのデシャップにいました。
週末の忙しい時間帯に電話が鳴る・・・・・。
忙しくて誰もでれない、あたくしがキッチンで受話器をとる。

男性の声で、「そちらに”細谷さん”はいますか?」(現、"なのはな”の店長)
「・・・・・?」

ひょっとして「借金取りか?」一瞬ヘンなことを考える。
でも、細谷は移動して「暖中平岡店」にいる。
少し怪しんでいたので、機械的に「暖中平岡店」の電話番号を教えた。

週末のお店は相変わらず忙しい・・・・・。

「部長」入り口に「飯田様」と言うお客さんがお見えです。(当時、部長でした)
「飯田・・・・・?どんな人?」
「年配の男性と女性のお客さんです。」
「年配・・・・・???」

取りあえず行ってみるが、まったく見覚えがない。
あたくしは少し戸惑いながら、「どうも」と会釈をする。

すると男性の人が「どうもはじめまして、私、以前ここの会社の”大東京”
というお店でお世話になっていた、飯田の父です」と。
「それはどうも・・・・・。」(でも、飯田と言われても思い出せない)

それでも、お父さんはなにやら話を続けようとしている。
横にいるお母さんを見ると大事そうに何かを抱えている。
そしてごそごそと、その抱えている物を出し始める。

それは「写真」だった。その瞬間、
あっ!「飯田!」。そこで初めて飯田を思い出す。

でもなんでご両親が?しかも写真?
まるで子供を抱きかかえているかのように、ハンドバックを腕にかけて両手で
飯田の写真を持っていた。

「二ヶ月前です」とお母さん。それ以上は言葉にならない・・・・・。
ご両親の瞳が涙ぐんでいる。

その瞬間にすべてがわかりました。
「あぁ・・・・・、そうですかぁ・・・・・」と、何て声をかけていいのか言葉が見つからない。

飯田は背が高い北大の学生で”大東京”でキッチンのバイトをしていた。
その時に”細谷”に世話になったとのこと。
(そっか!さっきの電話は飯田のお父さんか!)と心の中で叫ぶ。
(また、やっちゃったよ。知らなかったとは言え機械的に応じた自分に怒りを感じた)

何でも、卒業して実家のある静岡に帰って、まもなく”血管のガン”になったそうです。
ガンが発見して悲しむ時間がないくらい早くに亡くなったとのこと。

ご両親は「なにがなんだか・・・・・、ただぼう然と月日が経ちました・・・・・。」と。
最近になって、ようやく「やっと気持ちの整理がついて来たのだと。」

そして、飯田の荷物を整理していると「汚れたレシピ帳」が出て来て、
そこには、飯田の字でびっしりと「ドレッシングの作り方、仕込みの手順、注意事項」
などが書かれており、それを見て息子の足跡(そくせき)を知りたくなったと。

電話や休みで帰って来たときに、バイト先でみんなが良くしてくれていると常々
言っていたとのこと。(たぶん細谷の名前がたくさん出ていたんです)

「本当にみなさんに良くして頂いたので、どうしてもそのお礼と息子が居た場所を
一度見たくて来ました」とご両親。

それを言い終えるか終えないかで、また、思い出したのでしょう。
お母さんは口元が震えて、お父さんは口惜しそうに唇を噛みしめていました。

その時にはもう既に「大東京」はなくなっていました。
しかし、研修で「上海月」にも来ていたことを聞いていたので、初めての北海道
で土地勘もわからないのに、やっとのおもいで人に聞きながら来たと。

せめて飯田の足跡を辿(たど)ることによって、
飯田と一緒に懐かしい場所を味わっているように感じた。

あたくしにはわかります。じいさん、ばあさん、おやじの骨を
地元芦別から札幌へ移す時に、骨壷を助手席と後部座席にのせて、
一緒に住んだ家や思い出の地をこれが見納めだからと言いながらあっちこっち行ったから。

サイバーの表の扉までご両親を見送った。
ご両親は「遺影」に話しかけるように、ビルを見上げて立ち去っていった。
何度も何度も頭を下げて。

今でもその姿が瞼(まぶた)に焼きついています。。。。。

どうして、あの時に一言「飯田君が働いていたキッチンを見ていきませんか。」と
気の利いた一言が出なかったんだろう。店が忙しかったからか?
突然のことで戸惑ったからか?

「あふれる感動」が聞いてあきれるよ、まったく。

せめてもの救いは飯田のご両親が、無事「細谷」に逢えたこと。
札幌の人でさえ行くのが大変な「平岡暖中」へ。
そうだろ、細谷。

別れ際にお父さんが、おっしゃいました。
「もう、北海道へ来る事はないと思います。」と・・・・・。

「飯田」の思い出と、「荒城堅治」を偲んで。。。。。

  • 加藤商店だョ!全員集合
  • 丸かの前進!前進!トップギア!!-加藤商店のブログ-