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炭鉱町の娯楽・・・・・。

今日は肌寒いですね。
北見では5月なのに雪がしっかりと積もっています。
きっと九州や沖縄の人が聞いたら、さぞかしビックリするでしょうね。(笑)
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小さい時のこの時期の楽しみは”西芦別の炭鉱祭り”でした。
ほとんど娯楽らしい娯楽のない炭鉱町では、特に子ども達にとっては
一大イベントでした。

前夜祭~本祭り~後祭りと3日間は多いに盛り上がります。
あたくしの家は東一条五丁目にあったので、住所的には西区2丁目、
上の風呂(第三浴場)を曲がり三北商事第一売店が見える辺りから
”綿アメ”屋さんがあり、そこから発する甘い匂いが”西芦別炭鉱祭り”の
始まりでした。

今から思えば炭鉱の衰退と平行して人口が出店も年々減って
来ていました。出店の数も20軒位だったと思います。

子ども達、特に男子に人気だったのは1位がスマートボール、
2位フレンチドック(アメリカンドック)、3位が型抜きといった感じでした。

でも、あたくしは1等が当ればおもちゃの模造刀やモデルガンなどが
当る、1回50円のくじ引きばかりやっていました。当時は絶対に
1等が当らないシステムになっている事は知る由もなく、ゴムで出来た
ヘビやトカゲのおもちゃや、口にあてて吹くとくるまっている紙が音と一緒に
伸びるやつとかしか当らなく、その度に何度もチャレンジしていました。(笑)
(真っ直ぐだけではなく、前と左右に3方向に伸びる、今から考えるととっても
間抜けなことになるのも貰いました)

そんなにお小遣いを貰っていないので無くなるのですが、そのような時には
人のやっているスマートボールを見ていたり、型抜きの所へ行き、人のやって
いるのを見たり、失敗して捨ててあるのを練習がてらやったり、型抜きの型は
食べれるのでそれをポリポリと食べていました。

あとは出店の人の手伝いをしたりするのもい楽しみの一つでした。
ちょっとしたお使いや、店番をしてさっきまで”カモられていた”側から
”カモる”側に回って、ちょっとした優越感に浸ったりなんかもしていたのです。

毎年ほとんど同じ人が来る出店があるので(捕まっていなかったら)、
あたくしは”べっ甲アメ”屋さんの”二郎さん”という人に可愛がられていて、
「中学を卒業したら、迎えに来るからな。」と言われていました。

当時はあまり考えていなかったので、何のことか分からずにいましたが、
どう考えても迎えに来られなくて良かったです。迎えに来られていたら
きっと皆さんと会うのは”札幌祭り”くらいでしたから・・・・・。

今は人口もかなり少なく子ども達も数十人なので、”炭鉱祭り”なんて
やっていないと思いますが、やはり子ども時代には自分の住んでいる
所でのお祭りは良い想い出になりますので、あった方がいいですね。

けれども、一度だけとても暗い想い出があります。昭和52年の年です。
小学5年生の時でちょうど遠足の日で緑泉(ろくせん?りょくせん?)・中の丘
方面へ行き帰る時にけたたましくサイレンが鳴り響きました。

お昼のサイレンではないとしたら、火事が炭鉱事故です。どちらも嫌です。

結果は最悪の”炭鉱ガス爆発事故”で25人が亡くなりました。
一つ上の先輩の家ではお父さんのお兄さんを同時に亡くしました・・・・・。


あっ、今思い出しました!
”炭山(たんざん)まつり”と名前が付いていました。

”炭鉱ホルモン欽ちゃん”のホームページの”想いでの後に”の所で”炭山まつり”の
ことも書いていますので!