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炭鉱祭り

  • 2012/05/01 09:10
小さい時の5月の楽しみは何と言っても”炭鉱祭り”でした。
毎年、第二週くらいに行なわれるのです。

待ちきれなくて”お祭り”の出店(でみせ)が並ぶ所へ行くと、場所ごとに白いチョークで区分けして「ここには何が出るのかな~」などとニヤニヤしながら友達と話していたものです。

娯楽らしい娯楽のなかった炭鉱町では、この”炭鉱祭り”は一大イベントなのでした。事故のないように山の神様を祭るのですが、子供のとってはそれよりも”お祭り”と聞いただけでウキウキ・ワクワクしたものでした。

お祭りといえば何と言っても”出店”です!
その中であたくしは”くじ引き”が大好きで、おこづかいのほとんどをくじ引きに使っていました。(今でも好きです)

100円玉で500円分を貰うのですが、まず1本100円のフレンチドッグ(アメリカンドッグとも)を買い、それを食べながら”型抜き”をやりながらいよいよお目当ての”くじ引き”に行くのです。

型抜きのおじさんは結構上手く出来ても「表満点!裏0点!」などとごまかして、2、3枚新しい型抜きを子供に渡したりしていました。(笑)

あの何等が出るか分からない緊張感は子供の好奇心をめい一杯くすぐるには充分でした。しかも、1等はおもちゃのライフル銃や模造刀
などがあり、それを欲しさに残りの全おこずかいをつぎ込んではゴムで出来たヘビやらトカゲのゴムのおもちゃしか当らなかったのでした。

他の男の子達の一番の人気は第三浴場(上の風呂)側から入ったすぐ側にあった”スマートボール”でした。やはり中にはズルイ人がいて、ボールが下に出てくる所の木を引っ張ると、もう一度ボールが全て元の戻ってくるので、
お金を払わなくてももう一度出来るようにしたり、
端の方の台ならばこれまたおじさんが見ていない隙に素早く台のガラス扉を開けて、良い位置にボールを手で入れてもう一度出来るようにしてもらうのです。(笑)

私は小学の低学年まで西芦神社で”子供相撲大会”などをやっており、家ではじいさん、ばあさん、おやじ、おふくろが「あれ、お兄ちゃんなにやってんだろうね~」とか「孝一はどこに行ったんだ?」などの心配をよそに、兄貴は子供相撲大会で優勝をしてノートや鉛筆やらを貰って来て取り越し苦労をしていた家族は大笑いという、昭和のほのぼのとした光景を思い出します。
ちなみに私は参加しませんでしたが、カルミンを貰った記憶があります。

べっ甲アメやら金魚すくいに亀すくい。
そういえば、同級生の”横山”という女の子のお母さんがおでん屋さんをやっており、行くと少しサービスをなんかもしてくれました。(笑)
小学2年か3年の時に、じいさんとばあさんが西区3丁目”老人クラブ”の管理人になりそこへ引越ししたので、よりお祭り開場が近くなりおこずかいが無くなると東一条五丁目の家まで帰らなくても、上手く行けばそこで資金調達が出来ました。(笑)

小学4年か5年の時に釣り仲間の”中畑正美君”とお祭りに行った時には私の大好きなくじ引きは”中畑君”のお父さんの古くからの友人で、そのこともあり私と中畑君は前夜祭・本祭り・後祭りと、ずーっとそのくじ引きに入り浸っていました。

ある時そのくじ引きのおじさんが私と中畑君(おじさんは”マーちゃん”と呼んでいました)にそっと耳打ちをして「くじ箱の中にある角がめくれたくじを引いてくれるか?」と言うので、その通りにしたらなんと!1等の模造刀が当たりました!!
って言うか、単に私と中畑君がサクラをやらされただけなんですけどね。

でも、その甲斐あって他の子供達もくじを引くようになりましたが・・・・・。
お祭りの最後の日は夕方になると少しずつ出店を閉まっていくので、なんとも言えない寂しい気持ちになったものです。。。。。

追記 炭鉱祭りが終わると、なぜか電線には”アメリカクラッカー”が引っかかっていました・・・・・。

クラス替え

  • 2012/04/01 22:43
雪深かった西芦別もこの時期になると、土や草などが見えてきます。道もグチャグチャでいい感じで味のある光景です。(笑)

あたくしはしませんでしたが、兄貴はこの時期にはよく”山わさび”やら”ふきのとう”などを取りに行っていました。
なんせ、あちこちにありましたから。


あたくしはというとタミヤ何分の何といったプラモデル作りに励んでいて、元来不器用な私はプラモデルをセメンダインだらけにして、戦車などに指紋がバッチリ付いていたものです。

この時期は新学期が始まります。
小学生の時は、1・2年、3・4年、5・6年が同じクラスで中学以降は1、2、3年生と1学年ずつ違うクラスになります。

クラス替えの時には「誰と一緒のクラスになるのかな~」と考えると”ワクワク・ドキドキ”して「仲の良い友達や好きな女の子と一緒のクラスになりますように!」と半ば祈るような思いで各クラスの廊下にはってある、担任の先生と生徒達の名前を見るのでした。

あっちこっちで「やったー!」とか「あ~」と言う歓声やため息が聞こえてきます。中には仲の良い友達と別々のクラスになって抱き合って泣いている女の子もいたり、
「何で00が担任よー!」とか、
「嫌だな~、変わって隣の担任と変わって欲しいな~!」
と言っている男子もいました。

私なんかも本気で「変わってもらおうかな?」と思ったほどで、
今から考えるとトレード制なんてあれば面白かったかも知れないですね。って言うか、そんなことしたら悪い奴ばかりのクラスに偏ってしまいかねないので、やっぱりダメですね。

そう思うと先生達もそれなりに考えてクラス編成をしたのでしょう、きっと。
(まったく適当だったら笑ってしまうけど)

でも、面白いものであんなに「コイツと同じクラス!?ぜってー仲良くなんかなるもんか!」などと言っていたのが、一ヶ月もしない内に仲良くなって学校なんかも一緒に帰ったりしていたりするもんですよね。

もう一度、あの”ワクワク・ドキドキ”のクラス替えを経験したいものです。。。。。

つらら

  • 2012/03/01 17:08
よく、学校帰りには友達と遊びながら帰りました。
夏は缶や石を蹴りながら、それに当るとその人が、また違う人に当てるという単純な遊びでしたが、これがかなり燃える。

冬はカバンを雪道の上で滑らせたり、雪山の上を歩きながら帰ったものです。

冬は石がないので、その代用として雪の固まりか、氷を蹴りながら帰りました。

なぜ?あんなに家の軒先に氷のツララがあったのかは分かりませんが、どこの家の軒先にもツララがあり、
同じ長屋でも空き家になっている家のツララは処理をしていないので、大きくて長いツララがあり、一度同級生の
”西けん”が大きいツララを取ろうとして思いっきり頭に落ちてきて、一瞬静まり返りましたが「イテテテ」と顔を真っ赤に
しながら頭をかきながら振り返った時には涙目だったのを覚えています。(笑)

そのツララをペロペロと舐めながら帰るのもまた一つの楽しみでもあるのですが、中には頭のいい奴が「氷は汚いから舐めちゃダメだよ」
などと、よく職員の子供に言われました。

職員と言うのは、私たち風呂無しの炭鉱長屋に住んでいる人たちではなく、家に風呂もあるのはもちろんだけど、大学などを出た
三井鉱山のエリート社員の人たちのことを言います。

大体、職員の子供達は育ちがいいので頭の良い子が結構いまして、少し上目線から言うちょっぴりムカつく奴が多かったです。

「フ~ン」と、そのようなことを言われても私たちは構わずツララを取っては「鉄砲!」とか「刀!」などと言って遊んだり舐めていました。

本当に楽しかったです。

でも、今から思うと確かにそのツララには黒い物が混じっていました。
何のことはなく、石炭ストーブから出る”スス”だったんですね。

確かに舐める物ではなかったですね。(笑)
今の感覚でどうするか?と言われれば、もちろん「舐めるよ」と。

きっと、当時も”スス”が付いているのは知っていたと思うのですが、まったく気にしていなかったか、”スス”の部分を舐め溶かして吐き捨てていたと思うのです。

そう言えば、小学2年生の時に鉛筆を舐めっていたら真顔で「鉛筆を舐めるとバカになるよ。」と言われました。

高山基樹君に一言言っておきます。
37年前の2年2組佐藤妙子学級で「鉛筆を舐めるとバカになるよ。」
と言いましたね、その後と今の人生を振り返ってみると、
「君の言ったことは全く間違っていなかったよ」と思うのでした。。。。。

コタツと豆炭あんかとみかん。

  • 2012/01/30 19:00

冬と言えば『コタツ』です。

そしてなぜかコタツの上には、かごに入った『みかん』が 置いてありました。

小さい時は『コタツ』の中に入るのが好きで、ミニカーなんか を持ち込んで一人で遊んだものです。

今と違って「サーモスタット」が付いていない時代で、 ごくたまに消し忘れて“ボヤ”になった、家がありました。

 

今のはどうか分かりませんが、昔の『コタツ』は通常の テーブルと裏は緑のマット状の麻雀が出来る仕組みなっていて 夜中に小便をしに2階から降りてきたら、大人達が楽しんでいるのです。

『みかん』は段ボールで買ってあって、毎日、毎日手を黄色に なるくらいに食べておりました。一度、2階の部屋にいて何を 勘違いしたのか?段ボールのみかんを半分ほど食べてしまい、 物凄くお腹一杯になり過ぎて、あまりの苦しさに階段辺りまで 這って行き「死ぬ~」と叫ぶと、

 

お袋が下の居間の『コタツ』から出もしないで「誰が死ぬって!?」 「俺~。みかん食べ過ぎた~」と必死に叫んだのですが、返って来た 言葉が「バカじゃないのかい!そのまま死んでしまえばいんだ!」と、 まったく愛情のかけらも無い言葉を投げかけられるのでした。。

でも、本当に苦しかったんだと思います。 なんせ小学生ながら“胃液”が出て、それがみかんの胃液だった くらいですから・・・・・。

それでも、元気になれば『みかん』を平均10個は食べていました。 お陰でさまで、ほとんど“風邪”を引かないで過ごせましたけどね。

そうそう、冬と言えば昔は『豆炭あんか』という優れものがあり、 ストーブの中に“豆炭”を入れて真っ赤にして、それを“火バサミ”で 掴み『あんか』の中に入れて、それだけだと熱くて火傷をするので 厚手の袋に入れて、寝る1時間前くらいに布団の足元に入れると 寒い布団の中は足元だけ温かくて快適に寝れるのです。 

がしかし、幼稚園や小学生の低学年の時には布団の中で 兄貴と『あんか』の取り合いになり、「黙って寝なさい!!」と これまた、お袋に叱られてしまうのでした。 たまに袋の紐を締めるのが緩い時には、『あんか』が袋から少しはみ出て しまい、そこに足を付けて「アチッ!」と大騒ぎする時も。 (布団の中で異常に熱すぎる『あんか』の時もありました)

今でも“火バサミ”で真っ赤な豆炭を掴んで、大人が慎重に『あんか』 の中に入れる作業は、見ている子供達も緊張した面持ちで見ていた ものです・・・・・。

ミニスキーとボブスレー

  • 2011/12/29 19:27
私は元々運動神経は良くなく、ましてやウィンタースポーツは大の苦手で、
スキーも覚えたのは中学1年生になってからで、しかも”ボーゲン”(V字形で滑るやつ)。
でも、ボブスレーはいい感じで得意でした。と言うよりも、ただ座って乗っているだけなので、得意も何もないんですけどね。。。。。

冬になるとスキー学習は、運動会に次いで大の苦手でした。
いつも「風邪を引いたので・・・・・」などと、仮病を使いロッジにいたり、
ボブスレーで、スキーに乗れないチームで端っこの方にいました。
兄貴はレーシング倶楽部に入っていたりと、私とは正反対にスキーは大得意分野でした。
けれど、雪国には”ミニスキー”という、これまた小さい子から初心者まで、余程のことをしなければ怪我のしない乗り物があるのです。

この”ミニスキー”は長靴やスノトレでも直接履けるので、非常に便利な遊び道具で誰でも気軽に遊べるのですが、一日中遊んでいるとプラスチックで出来ているので、折れたりしたものです。
たまに軽トラックの後に捕まり滑っている人や、スキーのようにストックを持ちながら軽快に滑ったりもして遊びました。
まぁ、私はと言うとそのような”ミニスキー”も苦手で、近所の坂道でジャンプなどを作って遊ぶのですが、それもあまり上手くはなく、
やっぱりボブスレーになるのです。
ボブスレーを普通に滑っていては飽きるので、腹ばいになって滑ったり、仰向けになり頭を進行方向へ向けて滑った時にはどこへ行くか分からなく、脳天からまともに近くの家の物置にぶつかって、半べそになった記憶もあります。

普通のミニスキーと少し大きめの”ジャンボミニスキー”があり、ジャンボミニスキーの方がでかい分、安定していて滑り安いの
ですが、人に見らると「アイツ、ジャンボミニスキーだから初心者だ。」と思われるんじゃないか?と思い、隠れて乗ったりもしていたんですね。

炭鉱マンが坑内へ行く時にバスを待っているちょっとした坂があるのですが、そこにミニスキー場とジャンプ台を作り遊ぶのです。
ジャンプ台を工夫して上向きにしゃくれるように作ると、かなり上の方へジャンプをするので楽しいのですが、その代わり飛びすぎてしまい、頭から突っ込んだり、下手くそな私は胸から突っ込んで行っては、「息、出来ねー!」と叫んでいたものでした。

しゃくれていて危険なジャンプは、高く跳び着地に衝撃がある分”ミニスキー”が折れやすいんです。
たまに、車が通った時などは、「ジャンプ台、踏むなよ、踏むなよ」と願いながら側で見ていました。
中には悪い奴もいて、せっかくいいジャンプ台を作ったので翌日に行くと、破壊されていたこともたびたび......
私も遊び疲れて帰るときには、ボブスレーでジャンプ台を壊したり、坂道を走りながらジャンプ台を踏みつけて、そのまま一直線に家に帰って行ったりも。(コラッ!)
そういえば、家から米袋やダンボールを持ってきてそれに乗って滑るのも結構面白かったです。(経済的な遊びです)
そして散々遊びまわり家の玄関に入る頃には、長靴の中にこんもりと雪が詰っていて、容易には脱げなく四つんばいになりながら、足を振るようにして、やっとの思いで長靴を脱いだものです。
大体は一緒に靴下も長靴と一緒に脱げるか、わずかに足の先にブラブラとついている状態でした。
今やったら、上手く滑れるだろうか・・・・・?

炭鉱風呂

  • 2011/11/30 23:39
私の住んでいた地域には”炭鉱風呂”が三ヶ所ありました。
職員の家には風呂がありましたが、それ以外の人たちは第一浴場、第二浴場、第三浴場へ行っていたのです。

私が通っていたのは”第二浴場”。 
別に どこへ行ってもいいのですが、やっぱり皆家から近い”炭鉱風呂”へ行っていたと思います。   

たまにいつも行っている”第二浴場”が休みの時には、”第一か第三”へ行くのですが、その時には普段来ないので
友達なんかに会うと「第二休み?」などという会話があり、普段とは違う新鮮さと少しの緊張感(アウェーなので)を楽しんでもいました。

どこも無料で、時間は午後3時~午後8時まで。おじいちゃんやおばあちゃんはする事が無いのか?いつも同じような人が3時前に風呂場の前で待っていました。

ちなみに私は5、6歳くらいまで”ばあさん”におぶさって女湯へ連れて行ってもらい、周りのおばさんたちから「いつまでお婆ちゃんに甘えてるのー」などとからかわれました。(本当は”ばあさん”が私を連れて行きたかっただけなのに)
小学生は午後6時、中学生は7時、高校生以上は8時迄。(小学生は、よく手ぬぐい一本のみ持参で行ってました)

当時は午後6時から”巨人の星”が入っていたので、それに間に合うように小学生の頃は帰ってきたものです。それとやはり上級生には会いたくないので、小学生は中学生が来る前、中学生は高校生が来る前に。と言う暗黙のルールのようなものがあったと。(兄貴談)
真ん中に付いてる風呂を沸かすボイラーを挟んで10人ほどが入れる風呂が2つあり、コーナーの一角に温泉風呂?もあり、大体おじいちゃんが気もち良さそうに入浴していました。(かなり硫黄の臭いがしてたような)  

この”ボイラー”は時々「じょー!」と言う、何かをひねり出すような音を出して沸き始めるので、その音が出ると少しでも遠くへ逃げたものです。(よく妄想でボイラーの下の穴から”ピラニア”が出てきたらどうしよう!?などとも思っていました)


なので、よく風呂で騒いではおっさんに怒られた記憶があります。
今と違って”クソガキ”を叱るのは当たり前の光景でしたから。

小さい時に一度、風呂場の周りを走り回ってスベって思いっきり一人バックドロップをして後頭部を叩きつけた事もあり、親父と一緒
だったんですが、痛いというよりもあまりにもキレイにすっ転んで、またとても良い音もしたので痛いというよりも、ビックリして泣きました。(笑)

そういえば、小さい時に”おふくろ”と女湯に入っていると、いきなり3歳くらいの子供を抱えている他所のお母さんがいきなり「あらっ!この子”うんちした!”」といったその瞬間、周りに入っていた人たちがものの見事に一斉に湯船から上がってしまいました。

で、管理人のおじさんが来て一度お湯を抜いてデッキブラシで掃除をしてから、まだ時間が早かったので新たにお湯を入れていました。

炭鉱風呂へ行く一番の楽しみは何といっても友達に会えることです。なので、風呂へ行き一番先に確認するのは脱衣所の窓から風呂場をのぞき誰が来てるか?でした。

仲の良い友達がいると速攻(多分3秒くらい)で素っ裸になっていましたが、時々嫌な先輩なんかがいたりするとと~ってもブルーな気持ちになったものです。

今なら携帯やメールで「あいつ来てるから、後のほうがいいぞ!」などと連絡も来ますが、昭和40年代、50年代初頭はそういう
わけには行きませんもんね。

何度か窓越しに嫌いな人を見つけては脱出した記憶もあります。
問題なのは、風呂に入っているときに来ることです。大体、そのような嫌われ者に限って脱衣所から風呂場へ行く”ウェスタンドアのような前後が開く扉を勢い良く「バーン!」蹴り上げて入ってくるのでした。

その光景はまるで”悪役レスラー”が乱入して来るようです。

そうなるとかなり厄介です。なぜかキャメ(デコピン)大会が始まったり、風呂の中で”うさぎ跳び”なんかをやらされてしまうからです。それと、どうでもいい嘘話や自慢話・・・・・。(まさに”ハイリターン・ハイリスク”(笑))

そういえば、小学生の高学年から中学2年生の頃のお楽しみはもう一つありまして、そ・れ・は、「女子風呂を覗くことです」
これはあまりにもストレートなので詳細はスルーします。

また、別に皆がみんな知り合いでもないけど、西芦以外の人が入りに来ると、何となくわかります。まるで”部外者センサー”が
付いているんじゃないのか?と思うくらい”ピ~ン!”と来ます。

まぁ、そのように他所から来ている人も”アウェー感”を感じるのか、何となく肩身のせまい思いをしている感じで、小学生ながらにも
「あんまりジロジロ見ると、嫌な気になるから見ないようにしよう!」と思いつつも、思いっきり横目で見ていたりと。

洗面所があるのに、風呂のお湯で頭や体を洗う人(結構、垢などが浮いているので大人は掻き分けて、あたくしたちは子供はそのまま)や筋彫りで威張っている人、お父さんが連れてきた4歳くらいの女の子に興奮する”むら”や、女子風呂を覗いて家族がいてかなりショックを受けていた”さいごマン”など、など・・・・・。

そういえば一度、二つ上の”順吉(じゅうよし)君”は風呂場の縁の腰掛けに座るなり、くちゃくちゃしていた口を開けて白い物体を見せながら「何だと思う!?」と聞くので、普通に「ガム」と答えたら、「違う、ホルモン!」と言ってのけました。

何でも晩御飯に出てきた”ホルモン煮込み”を噛み切れなかったのか?
ずーっと口の中で噛み続けながら炭鉱風呂まで来たようです。結局風呂を上がるまで噛み続けておりました・・・・・。

夏は夏で窓から西日が射して、とても心地よかったですし、冬は冬で洗面器を小脇に抱えて、濡れた手ぬぐいを風にさらすと
2~3分くらいでカチンコチンになり、それでよく風呂帰りに兄貴と刀の代わりにして遊びながら帰ったものです。

炭鉱住宅には切っても切れない炭鉱風呂。
そこには様々な人たちが居て、色々な思い出が詰まった本当に懐かしく、今でもあの光景は脳裏に焼きついています。。。。。

冬支度

  • 2011/11/10 18:10
住(炭鉱住宅)ではこの時期なると、冬支度を始めます。
まずは窓に外からビニールを張り、冷たい風をシャットアウトの準備です。
今なら2重サッシで防音、防風などというお洒落な窓がありますか、30年以上それも炭住にはそのような物体はありませんでした。
なので、今くらいに少し集めの透明ビニールを張り、春先にはそれを引き剥がします。それが炭住では春が来た合図です。

 
それと、たくわんを漬けです  三北(さんほく)商事で大根や漬物樽などを買い込んでたくわんを漬けます。これは婆さんの役目でした。
両手を真っ赤にして鼻水をすすりながらたくわんを漬けている婆さんの姿が今でも瞼(まぶた)に焼きついています。  
兄貴はじいさん子で、あたくしは婆さん子だったので、いつもその様子を見ていたんです。
じいさん、婆さんはあたくしが小学1年生か2年生くらいに老人クラブの管理人なり、そこで暮らし始めたので実質一緒に暮らしたのは7、8年といったところでしょうか。
それでも、西区3丁目にある老人クラブはあたくしの住んでいた東1条5丁目の家からは2丁半ほどでしたし、学校帰りにも
良く寄って行きました。


そして今時期、老人クラブでは”菊”の品評会のようなことをしており、会のおじいさんやおばあさんが作った立派な菊が飾っており、その菊に金・銀・銅などの折り紙が付けておりました。
その時期には、いつもはあたくしを可愛がってくれている婆さんも「たかし、そっちにいったらダメだぞ!」厳しい目つきで言われるのでした。
あたくし的には、その辺の一連の行事が”冬支度”だったんです。。。。。

石炭(黒いダイヤ)

  • 2011/10/03 20:18

石炭

私の住んでいた地域は、産炭地なので家でも学校でも石炭が使われておりました。
家で使う石炭は昔は馬が運んできたのですが、私の時には小型のトラックが一軒につき一か月分の石炭を家の前に「ザーッ」と降ろしていきます。


石炭が来ると家の前を車が通れなくなるので、なるべく早めに石炭小屋っていう物置と併用された場所へ入れるのですが、冬などはブルーシートなどを掛けて雪にあたるのを保護したりします。
石炭小屋から一斗缶(いっとかん)に入れて家に運ぶのですが、冬は石炭が凍っていてツルハシで砕きながら持って行ったもんです。(重かったな~)

家で”くべる”石炭は比較的細かくて、一般的には商品に出来ないようなもでしたが、学校では少し大きめの燃やしても長持ちするような石炭でした。
雪合戦とかで雪玉の中に石炭なんかを入れて投げる反則技もあり、今から思うと非常に危険な行為でしたね・・・・・。(笑)

一度、親(おふくろ)の言うことを聞かなかったのか?何だかは忘れましたが、石炭小屋に閉じ込められてしまったこともあります。
真っ暗なんですね。しかも物置と違い石炭しかないし、石炭は黒いから尚更暗い。けれども強情な私は自分から出て行かないでジッと我慢をするんですが、当時一緒に住んでいたじいさんが「たかし、もう出て来なさい」と言うけど、私はかたくなに拒み続けていましたが、じいさんの言った一言で私は石炭小屋から転げ落ちるように出てきました。その時の一言が、「でっかいネズミが出てきて噛まれるぞ」でした。。。。。

昭和50年ごろになると木造の炭鉱長屋も改良住宅と言う(改めて良いと書きます)家に順次引越しが始まり、それと同時に家では石炭ストーブではなく灯油ストーブに変わって行きました。
石炭を入れる手間も灰汁(あく)を捨てる面倒くささも、煙突掃除をする煩わしからも開放されたし、そして何より子供達からすると親から叱られる時に「デレキかい!デレキ!」と鉄で出来きた、ストーブの中の石炭の燃えた塊を崩す役目のやつで追いかけられることがなくなりました。大人たちは生活的にはうんと楽になったし、子供達から見ると石炭入れや石炭運び、デレキ攻撃から開放されたので当時は良かったのですが、今から思うと本当に石炭ストーブは暖かく、また炭鉱の喜怒哀楽がいっぱい詰まった懐かしい想い出でした。


因みに、高校までは石炭ストーブでした。蒸発皿を乗せて乾燥を防ぐのですが、その蒸発皿に給食の時間に牛乳瓶を入れてホットミルクを作るのですが、たまに割れてしまう時もあり、そのような時には一瞬にしてお湯が白く濁って変な臭いが教室中に広まり今でも鼻に染み付いています。(笑)
あと、蒸発皿に水を足すのを忘れ焦げてしまうのですが、あん時の焦げた臭いは中々取れなく、真冬なのに窓と教室の戸を全開で空気を入れ替えたものです。

もう多分、余程のことがない限り石炭生活にはならないと思いますが、今でもあの黒い石炭とストーブは私の記憶の中では燃え尽きてはいません。。。。。

 

塊炭飴『塊炭飴』(かいたんあめ)今でも売ってます。

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