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「生き筋」に見るリーダー。(秀吉編)

どうも、こんにちは”ねね”です。

本日は”秀吉”の「その時、リーダーは”生き筋”を見た!」の
お時間です。

”秀吉”の生涯には、大きく分けて転機は3つあります。
一つ目は、信長と出会ったこと。(良くも悪くも帝王学を学んだ)
二つ目は、明智光秀に勝利したこと。(結局、清洲城で有利になり
天下への道を作った)
三つ目は、朝鮮の役。(これが、その後に家康を有利にした)
と、あたくしは見ています。

秀吉は”信長・家康”と違い、正真正銘の本気で農家の出なので、
その当時は普通に考えて、”天下統一”なんて出来るわけがない。

これを今の確立にすると、一度に「BIGで6億と年末ジャンボ宝くじ3億と
ロト6の1等」が同時に当たったようなものです。
しかも、元手は全て千円以内で。

やはり、”強運”の持ち主だったのでしょう。

しかし、”強運”だけでも「天下統一」は難しい。
それ以外に何か?と問えば、機転が良いといいますか、やはり頭が
良かったのでしょう、きっと。

頭が良いだけなら”明智光秀”も非常に頭がいい。しかも、
彼は”源氏”の家系で、「足利将軍家」にも仕えていたので、
非常に教養人でもあるのです。

でも、”光秀”は頭が良すぎた。

だから、結局”光秀”は勘違いしたんだと思う。
「信長様は確かに凄いが、それは我ら家臣が命がけで働いたからだ、
その中でもこのワシの功績は大きい」と。

しかし”秀吉”は違う。
どこまでも、”親方様”とあがめている。しかも、”信長”のツボを充分に
心得ている。現に”信長”も秀吉に関しては寛大です。

それでも、やはり所詮は農家のそれも貧農の出である”秀吉”は
どこかで、”一度は賭けなければならなかった”と「渡部氏」は書いております。
いくら”信長”が身分は問わないと言っても、周りはそうは見ない。

だからこそ、是が非でも「生き筋(勝機)」を掴まなければならなかった。
それが、決定的になったのが「浅井・朝倉攻め」の時だと言っています。

それは”織田軍”が挟み撃ちにあい、一大危機に陥ったときです。
その時に”信長”及び他の”織田軍”を逃がす為に、”秀吉”は
「殿(しんがり)」を自分から申し出ました。

殿(しんがり)と言うのは、味方を逃がす為に追ってくる敵と戦いながら
逃げるのですからかなり損な役目です。

要は味方の為に”犠牲になって討ち死にする”覚悟で戦うのです。
たとえ、自分が死ななくても多くの部下が死にます。

しかし、”秀吉”は申し出た。
「渡部氏」は、ここで”秀吉”のその後の「生き筋を見出した」と言います。
いわば、勝ち戦ではなく、負け戦で死を覚悟して仲間を救うのですから、
しかも、誰もやりたくないことを自分から申し出たのです。

なぜ、危険で損な殿(しんがり)を引き受けたのか?
理由は2つあると言っています。

一つは「サルと呼ばれた身分から出世して、大名になり他の家臣団から
嫉妬の塊に取り囲まれた」。一歩間違えば仲間からも殺されかねない。
それを防ぐには、危険な殿(しんがり)を申し出て「恩を着せておくこと」だったと。

二つ目は「信長です。信長は大将としては偉いが、猜疑心(さいぎしん)が
強い、身近に仕えてる秀吉はよくよく知っている。しかし、信長でさえ
逃げ出す戦場で殿(しんがり)を務めた人間に対しては、いくらかでも心を
許すだろう」と、秀吉は”賭けた”のです。

現に、この時”信長”は挟み撃ちと聞くや、
殿(しんがり)だけを決めて、とる物を取らずに一目散に逃げ出しました。

この後、”光秀”が本能事変で”信長”に謀反を起こし、その後、
中国地方(山陰・山陽)で”毛利氏”と戦っていた”秀吉軍”が
急遽引き返してきて(有名な中国大返し)、”光秀”を「山崎の合戦」で破った。
(あまりにも早く帰ってきて、その勢いで”光秀”を破ったので、それを、
今でも耳にする”三日天下”と言う)


そして、この合戦では”信長”の家臣のほとんどが”秀吉”に付き勝利したのは、
”あの時の『恩』が働いていたのは大きい”と述べて言います。

(一説によると、秀吉が”信長”の他の家臣たちに「信長様は生きいる、
なので謀反人の”光秀”を討つから協力しろ」と言い、”信長”の威光を借りて
手紙を送ったとも)

その後、”秀吉”は1590年(天正18年) ”本能寺の変”から8年
北条氏を破って、1467年の応仁の乱から続いた各地での豪族や武将の
戦いが終り、全国統一を果たしたのでございます。

大なり小なり成功した経営者の方に、「なぜ、ここまで成功できたのですか?」
と聞きますと、みなさん口を揃えて言うのは「ヒット商品が売れたから」とか、
「あの取り引きで飛躍した」とかではなく、「ヒット商品の開発途中での出来事」
だったり、「取り引きをする前の決断」だったりなのです。

要は、上昇気流に乗る前の段階のギリギリでの”決断”を言うのです。

”秀吉”は、あの時に「火中の栗」を拾う事で、その後の自分の
立場(ポジション)を確立したのだと思うのです。


「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」
 
あたくしが一番好きな”豊臣秀吉”の時世の句です。