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黄昏は遠くに。。。。。

あの病室から見えた「黄昏」の鮮やかさを今でも忘れません。。。。。

前にも書いていますが、あたくしの”じいさん”と”おやじ”は
2代続けての「炭鉱マン」でした。

おやじは、あたくしが中学生頃に「じん肺」になり、年金暮らしになりました。
「じん肺」とは長年坑内で「粉塵(ふんじん)」を吸うと掛かる「炭鉱特有の職業病」です。

”おやじ”が「じん肺」に掛かったのは、40代半ば位です。
まだまだ働き盛りの歳ですね。

”おやじ”の思い出やエピソードはこと欠かないのですが、
今でもあたくしの人生の中でもウェイトの大きい出来事があり、
それは、あたくしが高校1年生の時に親戚のお兄さんから、2歳上の
兄貴用に車をもらい、家の前に置いてありました。

兄貴は札幌で板前の修業をしていて、まだ運転免許証を
取得していなかったのかどうか忘れましたが、実家でもある
「西芦別」の炭鉱長屋の前に紺色の「ローレル」にシートを被せてありました。

好奇心旺盛なあたくしは、
最初はキーを挿しエンジンを掛けるだけが、その内少しだけ前進
そして後進、それから長屋一周、そして町内と。。。。。

その日は雪が降っていましたが、少し慣れたのもありいつもどおり
キーをまわして取り敢えず後進。すると”おやじ”が玄関から顔を出し、
何やら叫んでいる。

ガチャン!!雪で気付かなかったのですが、後にお菓子屋さんの
車が止ってありぶつけちゃったのです。
その矢先おやじは「だから言わんこっちゃない」と言う顔をして
家の中に入って行きました。(笑)

その時なんか一瞬にして思ったんです。「物事から逃げるような
大人にはならないでおこう」と。そういう意味では”おやじ”は反面教師でした。

だから店長になって初めに思ったのは、「将来、子供が出来て面と向い”良い悪い”を
逃げないできっちりと言える人間になろう。その為にも部下に対しても逃げないで
面と向かって行こう」と。でも、それが良かったんだかどうだか・・・・・。

”おやじ”は四男一女の長男として赤平市茂尻(もじり)町に生まれました。
若い時はたいそう遊んでいたらしく、真剣に働き出したのは20代後半でした。
今では珍しくありませんが、当時としてはやはり真っ当な人間ではなかったみたいです。

しかし、結婚してから急に真面目に働きだし、時には”表彰”されたくらいですから、
根は真面目だったんでしょうね。

”おやじ”と”おふくろ”が札幌へ越してきたのは、あたくしが30歳頃のことで
既にあたくしも郷里を離れて12年経っていました。

それからしばらく経ち1997年の4月頃でしょうか、兄貴から電話があり
「”おやじ”ガンなんだってよ、それで、先生が身内に話があるって言うから、
”おっかー”と3人で話を聞きに病院へ行くぞ」と。

人間って不思議ですよね。そんな事いきなり言われても、まるで他人事なんですよね。
でっ、先生の話を聞く為に病院へ行き”おやじ”の病室へ行くと、「おう、”たっち”も
来たのか」と普通に言いました。

あたくしは、どう会話をしていいのか分らず「うん」とだけ答えました。
そして、3人で先生の話を聞きに行きました。先生が言うには何でも4段階あって、
4が末期だそうで、三段階の後半だということ(ステージⅢがどうのとか)、もっても秋頃まで
のようなことを言っていました。

”おうくろ”は座っていた椅子から今にも崩れそうになりながら、「先生、どうにもならないの
でしょうか?」と言っていました。兄貴もあたくしも、ただ黙って先生の話を聞くだけでした。
(多分、事実は事実として認めつつも実感がなかったんだと思います)

それからひとどおり今後の方向性を決めて”おやじ”のいる病室へ行くと・・・・・、

”おやじ”が壁の方へ向き少し丸まった背中を見せ、「すまんな、こんな病気に
なっちまって」とポツリと言いました。きっと気付いていたんでしょうね。まともにあたくしたち
3人の顔を見るのが切なかったんだと思います。。。。。

あたくし、その光景を見て我慢の限界ですぐに病室を出てトイレに入って泣きました。
”おやじ”がガンであることもそうですが、一所懸命にあたくしたちに気を使う姿に
とても辛く切なかった。本当は一番「ショック」なのは自分なのに。。。。。

病院から帰る車の中で兄貴が「参ったなー」と一言だけ言いました。

その頃のあたくしは、上海月のオープン準備やらプライベートでは彼女に振られた
ばかりで精神的にも肉体的にも結構参っていたので、「ほう~、そう来たか」と
半ば諦めという感じでした。

あたくし身内がお店へ来るのが嫌なので、家族もそれを知っていてあたくしのお店には
来ませんでしたが、最後の外泊を貰った時に「おやじとおふくろと兄貴」の3人が
上海月に来ました。まだ上海月は暇な時です。

抗がん剤で髪の毛が薄くなっていたので”おやじ”は帽子を被って来ました。
”おやじ”がトイレに行くと言うので、一緒に付いていくと「ここが”たっち”が作った店か~」と
しみじみと言いました。なにを思っていたんでしょうかね。。。。。

あたくし当時は会社にも店の人たちにも”おやじ”がガンで余命幾ばくもないことを
言っていませんでした。どうせ他人事だから言った時は社交辞令で「大変ですねー」
とかなんとか言うけど、ものの3分後には笑顔で違う話をどうせするし、そうなると
結構傷つくし、それなら最初から言わないほうがいいと思ったからです。
あたくしが逆の立場でもそうです、所詮は他人事ですからね。

9月も終わり頃、いつものように見舞いに行くと”おやじ”は寝ていました。
起こさないように椅子に座って”おやじ”の寝顔を見ていると、隣の患者さんの
付き添いのおばさんが「きれいな黄昏だね」と言ったので、あたくしも窓を見ると
本当に鮮やかに黄金に輝いた「黄昏」でした。


朝方、電話が鳴りました。寝ぼけながらも何を知らせる電話かすぐにわかりました。
(その経験があったから”足立”の時もすぐに分ったのかも知れません)
病院へ着くと看護婦さんが、ほとんど意識のない”おやじ”に心臓マッサージを
していました。それはあたくしの知っている”おやじ”ではなく、なんだかただの「肉の塊」みたいでした。

看護婦さんは腰が痛いらしく、辛そうだったので頭の中では「変わりますか?」と
言っていましたが、結局思っていただけで、ただ見つめているしかなかった。

葬式ってうまく出来てますよね。まだ、形があるときは未練があるけど、灰になったの
を見たら案外と吹っ切れるもんです。って言うか、その時から本当に思い出として
心の中に生きていると感じるんですよね・・・・・。

そうですねー、一つ後悔してるとしたら、中3か高1の時に何かを言われて「カッ」と来て
”おやじ”に向かって「何よ!働いていないくせに!!」と言ってしまったことです。

言った後もすぐに後悔しましたが、今でもあたくしはあの時の”おやじ”の切ない
顔を忘れることはありません。それを思い出すと胸のあたりが穴の空いた感じになります。

「じん肺」という職業病で働きたくても働けなかったのに。

普段は無口な”おやじ”で、
「俺は100歳まで生きる」が口癖だったんですけどね。。。。。(笑)

1998年5月11日午前7:57分。肺がん、享年64歳。
悔いのない人生だったかな。