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『電車は遅かった』。

今日は”バレンタインデー”と言うこともあり、
2年前の「社内メルマガ」を弱冠加筆しました。

日本で初めて「バレンタイン・フェア」をやったと言われる、
現在は株式会社ロッテホールディングスの傘下になりました、
”メリーチョコレート”のお話です。

創業者は「原堅太郎」氏と言い、もともとはモロゾフで
チョコレート作りをしていた職人さんでした。

その後、
「有限会社USチョコレート研究所」という名前で独立しました。

堅太郎氏は事業を起こす時に、
「美味しいお菓子を食べて怒る人はいない。
お菓子作りは平和産業なんだ」と奥さんに言ったといいます。

朝から晩まで汗をかきながら、
「この世に笑顔を生み出す仕事をする」という誇りと高い夢を持ち続けながら、
細々とパン屋の軒先を借りてのチョコレート作りをしていました。

しかし、戦後の復興間もないころなので粗悪品が幅を効かせていた時代に、
品質で勝負をしょうとしていたチョコレートはまだ世間が認めてくれませんでした。

独立した翌年に会社は倒産。
7人家族で生活も苦しく借金取りに押しかけられたりして、
すっかりまいってしまった原氏は子供が寝付いたある晩に、ガスの元栓を捻(ひね)りました。

無理心中を図ったのです。 
奥さんが泣いてすがり、「お金を返せてといわれても、
子供たちの命まで寄こせとは誰も言っていないじゃありませんかっ」。

その言葉で堅太郎氏は我に帰ることができました。
後年、息子の邦生氏が言っていました。父の事業はしばらく軌道に乗らなかったと。

資金繰りの辛さから、
発作的に列車へ飛び込んでしまいたくなったこともあり。
そのせか、晩年になっても電車が完全に通り過ぎるまで、
決してホームの端近くには立とうとはしなかったといいます。

メリーチョコレートは昭和33年2月12日~14日まで、
「バレンタイン・フェア」と銘打ち、新宿の伊勢丹でセールを行いました。
これは日本で初めての試みと言われております。

結果はチョコレート三枚とメッセージカードが一枚、
売上げはたったの170円の惨憺(さんたん)たる数字に終わりました。

アイディアを出し、
店頭で指揮をとったのは当時アルバイトだった息子の邦生氏でした。

考えてみれば当然の結果だったと邦生氏は振り返ります。
邦生氏自身バレンタインについて何もわかっていなかったのです。

頭文字からして「B」だと勝手に思い込んでいたそうで、
実は「V」だということも、図書館で調べてわかったほどです。

キリスト教を認めないローマ帝国の兵士とクリスチャンの娘との
結婚を認めたことで迫害され、殉教した”司祭・バレンタイン”の
名にちなんだもので、その殉教した日が2月14日。

この日に特別な人にささやかなプレゼントを渡す―。
日本に定着させる素晴らしい日だと思ったといいます。

その邦生氏はもともと会社を継ごうとは思っていませんでした。
理由は2つ、次男ということと、もう一つ理由がありました。それは、
「あれだけ汗をかき、一所懸命に働いても報われない理不尽さを感じ
ていたからです。」

邦生氏も入社して、2年目、3年目とバレンタインも定着してきて、
徐々に品質重視を貫いてきたことが認められて、新宿・伊勢丹だけではなく、
他の取引先からも声がかかるようになってきました。

そして、いよいよ全国展開を考えてるようになりますが、その上で
難題が2つありました。一つは、関西の出店に関して消極的だったこと。

理由は、父堅太郎氏がかって勤めていたモロゾフの本社が神戸にあり、
お世話になったとの遠慮があり、そのお膝下を荒らすような真似をしたく
ないという、堅太郎氏の義理固さからです。

もう一つの理由は、老舗の百貨店である日本橋の三越が、頑として、
歴史の浅い邦生氏の会社の商品を置いてくれなかったからです。
当時、百貨店業界では、「西の阪急」、「東の三越」といわれるほどの
ステータスでした。

しかし、当時は「三越と取引がある」というだけで信用になった時代です。
どうしても、三越に商品を置いてもらわなければ大坂や神戸を飛び越えて
てでも九州や四国への販路には絶対に避けては通れないのです。

全国展開への課題は2つ。
一つは、父堅太郎氏がかってお世話になったモロゾフに義理立てをして
関西方面には消極的と言うこと。

もう一つは、「三越」というステータスのある百貨店に商品を置いてもらい、
販路を広げる上で信用をつけること。

そこで、営業を任されていた邦生氏に白羽の矢がたった。
実は三越には、父堅太郎氏が早くからずっと通い詰めていたが、
まったく相手にしてもらえなかったのです。

父、堅太郎氏の後を兄の晃氏が担当したが、
これも門前払い同然の扱いを受け、三ヶ月ほどで諦めてしまいました。

誰かが打破しなければ、いつまで経っても全国的な信用を築くことは困難。
当時29歳の邦夫氏。それなりの経験も積み、若く、水泳で培った体力がある。
バレンタインデーの成功もあって、売る仕掛け作りにも自信を持っていました。

しかし、邦生氏に代わっても、なんら進展はなかった。
担当と口をきくことさえ叶わなかったといいます。

それでも邦生氏は定休日以外は連日、午後三時には三越に顔を出したが、
相変わらず仕入れ担当の”主任”には、会話すらしてもらえなかったのです。

一年あまりも通ったころでした。仕入れ部の扉を開けて挨拶をすると、
”主任”から一枚の紙切れを渡されました。そこには彼のものらしい筆跡で、
「何度来てもダメ」と走り書きがしてあったのです。

さすがの邦生氏も諦めかけた。帰途、梅雨どきの肌寒さが身に染みたという。
報告をした邦夫氏に父である社長は、「邦夫、もういい。諦めよう」と言いました。

これほど打ちひしがれた父を見たことがなかった邦夫氏は、
その寂しそうな横顔を見て、消えかけた闘志に火がついたのです。

「明日、もう一度だけ行って、最後に言うことだけは言っておこう」

翌日、いつもの時間に顔を出した。奥で算盤をぱちぱち弾いていた”主任”は、
「やれやれ、またか」という目でちらりと見ましたが、それも一瞬でした。

邦生氏は意を決して声を張り上げました。
「主任さん、ひとつだけお聞きしたいことがあります」

”主任”は驚いたように見たが、すぐに机に目を移しました。

「友人をもつとしたら華美な服装をして心の貧しい人と、
ぼろを纏(まと)っていても心の豊かな人と、どちらを選びますか」

すると、”主任”が初めて邦生氏を正視して、口を開きました。
「あたぼうよ。”心は錦よ”」

やや面食らいつつも、邦生氏は続けた。
「・・・・・メリーは本当におんぼろな会社で、まだろくに商品もないかもしれない。
ですが、”心は錦の会社”です。一年間、ありがとうございました」

どんな会社なのか理解すらしてもらえないのが悔しかったので、
 最後くらい堂々と立ち去ろうという想いで邦生氏は言い、
 きびすを返した瞬間、邦生氏の背後で”主任”の声がしました。

「メリーさん、取引しよう」

その後は、どこをどう歩いたのか記憶がないといいます。
邦生氏の右手には、あの三越の仮口座の申請書が握られていました。

”夢ではない。ついに熱意が通じた。”

そう思うと、父の喜ぶ顔が一刻もはやく見たくて、はやく知らせたかったと。

その時を邦生氏はこう言っている。
「普通に走っているはずの電車が、やけにスローに感じられた。
途中で降りて走ろうかと思ったほど、

”電車は遅かった”」と。

「社長!」
 机に向かい、書類に目を通していた父が顔を上げた。

「三越の申請書、もらってきましたっ!」

社長である”父”は、ぽかんと口を開け、一瞬の間をおいてようやく理解した。

「本当か、おい」 普段は決して取り乱すことがない父が、
なりふりかまわず喜ぶ姿を見て、邦生氏も目頭が熱くなった。

騒ぎを聞きつけ、会社にいた連中が駆けつけてきた。
父が買いに行かせた”赤飯とビール”で、すぐさま祝宴が設けられました。

「よかったな邦生ちゃん」 工場長や同僚も邦生氏らを囲んで喜んだ。
「邦生、よくやってくれた」 普段おとなしい兄も抱きつき喜んだ。

邦生氏は言う、後にも先にも、この日味わった以上の”感動を、私は知らない”と。

三越との取引は大きくものをいい。
この日を境にメリーは全国の足がかりをつかんだのです。。。。。

編集後記

「お客さまからアンコールをいただいてこそ商売だ。
アンコールは感動がなければ生まれない」

メリーチョコレートカムパニー創業者 原堅太郎より。

”主任”さんも粋ですね。