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数え切れないほどの勉強しました・・・・・。

あたくしはこの仕事に就いて26年になりますが、やはりベースは
”タスコシステム”の時代です。最もあたくしがアルバイトで入った時には
”(有)タカダ・インダストリー”でしたけどね。

アルバイトから半年余りで店長になり、才能豊かなあたくしは業績を
上げて一年半後には”大東京”というレストランバーの新店舗へ抜擢されました。
まぁ、その後紆余曲折×10くらいありましたが、どうにか生きています。(笑)

今日は、そんな時代に脳裏に残っている光景の2つをご紹介しますね。

一つ目は、大東京の店長になった時には、当時の”山田常務(後に専務)”が
オープン店などをやったことのないあたくしと一緒に立ち上げをしてもらいました。
飲食でもペーペー、しかもFOOD店もオープン店もゼロのあたくしにとっては
”山田常務”本当に頼もしい存在でした。

しかも、最初の2ヶ月ほど手伝ってもらいました。
その間、あまり業績が良くなかったので、当時あたくしが得意でなかったメニュー替えや
キッチンとのコミュニケーションをとって頂き本当に助かりました。

その反面、生意気にも”山田常務”の仕事のやり方に対して少なからず「?」と疑問符
も付き始めていたのでした。

まぁ、少し慣れたので自我が出たのでしょうね。
「俺一人でも出来るよ!!」という・・・・・。

それを察したのかどうかは分かりませんが、最初は1日通してが、数時間に、そして
ちょっと顔を出して終わりと”山田常務”が出勤する日も少なくなって来ました。

で、あたくしが切り盛りをして数ヶ月たった11月位の週末に(この頃にはお陰さまでお店も
繁盛して来ました)”山田常務”が手伝いに来てくれたのですが、その時も「何でよ!
俺一人で出来るって!邪魔なんだよ!!」的な思いがありました。(笑)

当時のあたくしは、少しでもお客さんを効率良く入れようと、お客さんの居心地なんか
考えずに他に席が開いていても、2名はカウンターかテーブルの2名席で、せっかくカップルや
年配のお客さんが飲食と雰囲気を楽しみに来ているとかを考えずに、ビシビシに席を詰めて
座らせていました。

でも、”山田常務”は客層や様子を見て2名でも4名席にエスコートしていなのですが、
あたくしは、それがとても気に食わなくて顔にも態度に出していました。(笑)

「損して得取れ」ではないですが、長くお客さんから支持される店は店本意ではなく
”いかにお客さんのことを考えて”が大切かを後々分かりました。

まぁ、言い訳をすると、あたくしは「どんな状況でも、絶対にお客さんが帰る時には
楽しませて帰す!!」という自信があったのもありましたけどね。(若気の至りでした)

その時、B5・6卓(分かんないよね)にエスコートをし”山田常務”が椅子を引いた
光景が今でも脳裏に残っていますし、それを「勝手なことをして!」と苦々しい表情で
見つめていた自分を覚えています。

今なら、これから来るであろうお客さんの事ばかりではなく、今目の前に来ているお客さんを
いかに気持ちの良い時間を過ごしてもらえるかを考えてエスコートを心掛けます。
(まぁ、ケースバイケースですが)

もう一つはタスコがメトロビルを買った時に、少ししてからテナントに入っているスナックの
ママが当時南3西1の事務所へ来ました、ノーメイクで。

あたくしは、社長室へ向う見覚えのあるママを見て「あっ、00のママだ!」と思いましたが、
それほど親しくはなかったので目で追うだけでした。

20~30分ほどしてママは出て行きました。
その後に社長が溜息と同時に疲れた表情で「家賃を坪1000円下げてくれってさぁ。」と
あたくしに言いました。

それから社長が言ったのは、「たかだか坪1000円を下げても、月15000円だぞ。
それなら、売上を15000円上げる努力を考えるべきだよな。」と。

あたくしも全くその通りだなと思いました。
きっと、客単価が7000円前後ですので月に約二人のお客さんを呼ぶ努力をする方が
店にとっても大切なことですからね。

もし自分ならば、「値切り交渉に行く時間とストレスを考えたら、やはり一人でも多くの
お客さんを呼ぶ方法を見直したり、考えます」。って言うか、それが本業ですからね。

今日、話した事柄は皆さんにとって「?」かも知れませんが、その後のあたくしの考え方や、
今の(有)丸か加藤商店の基礎になっているんですよね。

場面、場面の印象的なことは覚えているものですね~。。。。。
(まだまだ、数え切れないほどあります)

追記 
ファイル 1983-1.jpgお客さんが個展をやってます!!