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もう、5年か。

1994年春。
「けんじ、これ誰のだ?」と店先の前にあった「COOL」のしけもく
数本を指差し声を掛けた。
「すいません、僕のです、片付けます」と頭を下げた。

あたくしが、「けんじ」こと「荒城堅治(あらきけんじ)」の店に担当に
なり最初に交わした言葉でもあり、「こいつ以外と素直で正直だな」と思ったのと
同時に信用できる人間に思えた瞬間でもありました。

もし、あの時「いえ、知りません」何て「けんじ」が答えていたら、
その後のあたくしとけんじの間柄は無かったでしょう。

「しゃかりき屋メトロ店」、その前年の夏に「焼丸」からリニューアルオープン
してからずっと業績がよくない店、万年赤字体質。さぁ、誰がこの赤字店を担当
して「火中の栗」を拾うのか?当時店長は野口、調理担当はけんじ。

店自体は良くないが、二人ともガッツがあっていい。
会議で手を上げる、「オレが担当します」。当時のあたくしの担当は
「大東京」「ハリーズ・ベイ」「クラック」「ドラゴン倶楽部」。
そして新しく担当した一発目の言葉が冒頭の言葉でありました。。。。。

正直、けんじのことを書き出すと今週一杯使ってしまうくらいに沢山の
思い出があり過ぎます。

まず、最初に店に入っておかしかったのは二人とも元気で明るい、
よくこんなにも暇な店なのに、なぜにこんなにも元気に明るくできるのか?
という位に元気で明るい。
しかも、焼場の前のカウンター席は「特等席」だそうで、二人が好みの
女の子用の為に常に二席はキープしてあるとか。(アホだ)

しかし、二人の仕事に対する姿勢は違った。野口はどちらかと言うと、
結果よりプロセスを大切にし、けんじはプロセスより結果タイプ。
けんじは赤字で他店から舐められている自店がたまらなく嫌だった。

ある時、あたくしが「クラック」に出ていると「けんじ」がひょっこりと現れて、
「部長、お話があります、あの店を自分にやらせて欲しいのですけど」と
言いに来た。「僕は、店が赤字なのにいくら営業時間が0:00だからと
言って、せっかくお客さんが来ても帰す事はしたくないんです」と。

「わかった」と一言。これも不思議です、なぜあまり事情も聞かずに「けんじ」
に任せたのか?それから数日経ち「けんじ」に店を任せることになりました。
「けんじ、営業時間は?」 「はい、朝までやります」 「朝までって何時までよ?」
「お客さんがいるまでです」 「けんじ、気持ちは分かるけど、大体の目安を
つけておかないと、逆にお客さんが戸惑うぞ」 「それじゃ、一応営業時間は
3時までにして、それまでに入ったお客さんが帰るまでやり、その間に来た
お客さんもそのまま入れます」と。

一度、2:30位に電気が消えていたので「ああ、今日は早く終わったんだな~」
と思い、店に入るとその当時出来たばかりの彼女(後に奥さん)が薄くらい
店内のイスにちょこんと座っていて「あっ、部長お疲れ様です」 「Sちゃんお疲れ」
けんじはと言うと上半身裸になり、まるでブルースリーのような格好でデッキブラシ
で黙々と床を掃除していました。

「けんじ、お疲れさん」「部長、お疲れ様です」 「いつも朝まで頑張っている
から今日くらいは早く帰れよ」 「はい、お言葉に甘えて」、次の瞬間店の
ドアが開き女性4~5名が「もう終わりですか~」と。間髪いれずにけんじは
「どうぞ!いらっしゃいませ!!」「でも、もう終わりじゃないんですか?」
「なに言ってるんですか~、まだ終わってなんかないですよー、ただ、この時間
からはカウンターだけになちゃうんですよー」と中に入れて急遽あたくしと二人で営業を再開
しました。付き合い始めたばかりなので本当は二人でゆっくりしたかったはずなのにね。
その翌月から「しゃかりき屋メトロ店」の快進撃が始まったのです。

けんじのエピソード、
・ビアガーデンが始まりお客さんが少なくなった時のけんじの一言、「部長、
ビアガーデン頭に来ますね、考えたんですけどビアガーデン会場にうんこ撒いて来ようと
思うんですけど」(一体、どれだけのうんこが必要なんだ)

・原価率が厳しい時の一言「力(アルバイトの部下)、お前、大通り公園に行って
ハトをつかまえて来いよ、マジで行けよ!」

・団体の中で偉い人が威張っていた時の行動、「はい、お待ちどうさまです漬物お持ち
しました!」と言って、そのお客さんのハゲ頭の上に漬け盛りを乗せてしまった。
(半径3メートルは凍りついていた)

・痛風になって痛がっていたのに酒を飲んでいたから「けんじ、大丈夫か?」と聞いたら
「部長、痛風を逆から読んだら『ふつう』と言うんですよ、だから普通なんです」。・・・・・?

・店が満席の時に「!?けんじあそこの卓のお客さん随分盛り上がっているけどさぁ、
その割には伝票が三つあるんだけど」 「部長、あそこは相席です」「相席!?でもよ
4人用の席に6人もいるぞ!?」「はい、気にしてません」(お前じゃなくよ)

・「けんじ、どうした?」「お客さんが小上がりがいいって言うんですよ、それで、ここに席を
作ろうと思います」 「ここって?」 「ここです」 「ん!?けんじ、ここは普通の床だぞ?」
「はい床です、今は。でっ、当日ここのテーブルとイスをよけて、ここにござを敷いて座布団を置いて
小上がりを作ろうと」。 
「けんじ、アホかお前は?まずそのイス、テーブルは何処に片付けるんだ?しかもそんなに
低いテーブルはどこにあるんだよ?」
「はい、宅飲み感覚で地べたでもいいんじゃないかと」 「けんじ、今回はあきらめろ。。。。。」

・「どうも~いらっしゃませ~!」と言って好みの女性に対しては右手で握手をしながら満面の
笑顔で迎え、さりげなく左手を背中にまわしてブラジャーをさわっている。
(たまに、店長(けんちゃん)さわり過ぎ!と言われていた、しかもけんじのツワモノぶりは
カップルで来ていてもお構いなし)

・東銀座の会社の近くにある「魚民」へ行き、まるで自分の店のように振る舞い、
新人がいたりすると、店長を呼び「店長、新人の教育がなってないぞ」とか「今月の売上はどうだ」
と本当にはた迷惑な奴でした。

あと、200位ありますが「放送禁止」になるので、この辺りが公衆の面前に出せる話です。

酒飲みで、スケベで、貪欲で確かにとんでもない所も、多々ありましたがいい奴でした。
「暖中」を関東で展開するにあたり、2001年から規夫と一緒に東京へ行きました。
あたくしが札幌で会議が始まってすぐに「荒城部長が倒れました」と一報が入り、あたくしは
すぐに東京へ向かいました、それが2003年11月5日です。

それから12日後の11月17日「くも膜下出血」。(享年34)

最後の言葉は「ここの看護婦、意地悪でタバコを吸わせてくれないんですよブスのくせに、
売上構成表はどこにありますか?」でした。

あたくし、「タスコ」を辞めるかどうか迷っていたのですが「けんじ」の死が
最終的な決意になりました。けんじ、お前は生き急ぎ過ぎだったんだよ。

夢で逢ったけんじは、あたくしにこう言いました「実は生きてたんですよ、これから弟子屈(実家)に帰る所です」
それが、けんじに逢った、そして話をした最後です。
ファイル 158-1.jpg
一番左があたくし、その隣が「けんじ」、1994年しゃかりき屋メトロ店が12月みごと1位になった忘年会にて。
けんじがよく歌っていた曲。
でも、あたくしが「けんじ」に贈る曲。