欽ちゃん本店
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晩秋と友

  • 2019/11/01 00:22

あれは忘れもしない、高校二年生の時に電気科の伊田

木枯らしの舞い散る秋に身体を丸めてトボトボと帰って行ったのを授業中の

教室の窓から見ていました。

 

伊田は赤平から芦別工業へ通っていまして、中学も工業での科も

違いますが、気が合ったのでよく話をしていました。しかし、ご多分に

漏れず赤平も炭鉱町で、またわざわざ隣町から芦別工業へ来るくらいなので、

まぁまぁなやんちゃな奴でして・・・・・。

 

では、なぜ?授業中にもかかわらず木枯らしの舞い散る通学路を身体を丸めて

トボトボと帰って行ったかと言うと、その少し前に教室でタバコを吸っていて

見つかってしまい停学になったからです。もちろん伊田は今回の停学は

初めてではなく、過去に何度も停学なっております。ただの停学ならば二週間ほど

自宅謹慎をし課題をすれば元のように楽しい学校生活が待っているのですが、

今回ばかりはどうにもこうにも単位が足りなく、「オレ、今回停学になったら単位が

足りないから留年か退学だわ。」とこぼしていたので、担任の優しい宮崎先生でも

学業?復帰は難しいかと・・・・・。

 

もちろん、私たちも大切な仲間である友だちが退学になるのはとても残念です。

しかし、事ここに至っては見守るしかありません。で、午後の授業中に窓の外を

見ると伊田がトボトボと歩いていたんです。

 

あれから36年になりますが、この季節になると何時もあの伊田の身体を丸めて

トボトボと歩いて帰る光景が思い出されるのです。。。。。

夕焼けを見つめて

  • 2019/10/01 01:13

よく小学生の頃に夕焼けを見つめていました。
別に何を思うとかではなく、ただ夕焼けを見つめていました。
 
自転車にまたがりハンドルの所にアゴを付けるようにして
陽が沈むのを見ていました。ハンドルの鉄くささが今でも鼻先に
残っています。何処へ行くのか?カラスの群れを見ながら、学校帰りの
中学生を見ていました。
 
あの光景は今もあるのかな?
あの中学生の方たちは元気にしているのだろうか・・・・・。

そうして大人になって、再開する・・・・・

  • 2019/09/01 00:06

暑かった日々と遊び過ぎた夏休みも終り、始業式が始まり朝晩と肌寒くなる9月。
何でも今は「前期・後期」で分かれるるみたいですが、どうもピンときません。
誰が何のためにそんな呼び方にしたのでしょうか?ここは、一学期、二学期、三学期
が絶対にメリハリがあっていいと思います。
 
で、新入生にとっては二学期が一番充実するんじゃないか?と勝手に思っています。
一学期はまだなじめずに、あっという間に夏休み。なので、高校生の頃はこの夏休みに
学校を辞めるのが多かったですね。三学期は冬休みが終わると春休みのまでの
約2ヶ月あるかないか?ですから、そう思うと、少し慣れて友だちも出来た二学期が
新入生にとっては良い時期でした。
 
私の記憶違いなのか?いえ、そうではないと思いますので正解を前提に話しますが、
「芦別祭り」は「6月」と「9月」にもあったと思うんですね。それが、どちらも「芦別祭り」と
言う呼び方だったのかは定かではありませんが、確か2つあったような気がします。
なので、高校生での9月の楽しみは「祭り」です!!
 
何通りと言うのか?分りませんが、野口病院の前の通りにずらっと出店が両側に
並びます。西芦の炭鉱祭りの3倍?4倍は出店が出るので賑わいます。(笑)
 
高校生ともなると「お祭り」では彼女・彼氏なんかと手を繋いだり、腕を組んだりして
歩く生徒もいますが、私はそんなことからは縁遠くて・・・・・。
たまに、中学まで一緒で高校は違う友だちが異性と歩いているのを見ると、それも
女性が西芦で彼氏が他校生だと、何だかこっちの方が照れくさくて見て見ないふり
したりしましたね。向こうも余計なことを言われたくないので、気づかないふり。(笑)
 
でも、そうして幼稚園、小学、中学と同じだった同級生と少しずつ疎遠になって
行くんですよね。そして何十年かして、また昔みたいにバカ話をして集まっています。。。。。

夏休みとプールの想い出

  • 2019/08/01 00:48

西小では、小学3年生までは下のプールで、四年生以上上のプールだったと思います。 

で、下のプールは通称「ションベンプール」言われておりました。

まぁ、お察しの通り低学年は躊躇なくプールでおしっこをしますからね。()


小6まで泳ぎが得意ではなく、と言うか、泳げなかったのでプールの授業はそれまでに一度か

二度ほどの記憶しかありません。その内の一つは下のプールで、もちろんおしっこをしました!()
小さい時から風呂で頭を洗われるのがイヤで膝の上で仰向けになって頭を洗ってもらうか、

思いっきりシャンプーハットだったので、その時点で水が苦手だったんですね。

プールも家の前でビニールプールで思う存分ひとりで遊んでいましたね。()


しかし、一年奮起して小6の時に同じかなずちの「村上(むら)」と上の炭鉱風呂で炭坑マンの

オヤジたちに怒られながら練習を積んだ甲斐もあり、何とか数メートル泳げるようになったので

夏休みに満を持して上のプールにデビューしました。


毎日プールに通った結果、お陰さまで夏休みが終わる頃には25メートルも泳げるようななりました。

途中、大きなアブに刺されながら、それから非難する名目で潜水して後輩の女子のお尻にめがけて

突入して楽しんだりと、楽しく良い想い出でしたね。

 

プールに行く楽しみは「むらや」へ寄って串団子やかき氷を食べたり、葛西商店でミリンダや

ペブシなどを飲んでは王冠の裏ぶためくって世界の国旗やら金額が出たらもらえるのを楽しんで

おりました。

 

山間の炭鉱町なので海へ行けない分、子供たちはプールで思いっきり楽しんでおりましたね。

楽しい夏休みとプールの想い出でした。。。。。

https://www.youtube.com/watch?v=eTTpeERnIDI

追憶

  • 2019/07/01 00:24

何か辛いことなどがあると、ふと西芦別の原風景を思い出します。
この歳になっても懐かしい光景が頭に浮かびます。
山々の景色、整然と並んでいる炭住、一条通りの道端に生えてる草や
たんぽぽ、買い物帰りのお母さん、真っ青な空、夕暮れ時の黄金色・・・・・。
 
炭坑マン家族に生まれた宿命、炭鉱町で育った運命。
今は亡き祖父母にオヤジ、そしてだんだんと記憶がはっきりとしないおふくろを
兄貴と2人で見守っています。
 
あの時の人々は、どのくらい健在なんだろう?健在なら何をしてるのだろう?
西芦の町は殆ど面影は無くなりつつありますが、私の心には今でもはっきりと
人々の営みや自然が染みついています。。。。。

中学・高校のこの時期は・・・・・。

  • 2019/06/01 00:40

6月はある意味スポーツシーズンで、中体連や高体連などがあります。
部活によっては3年生は最後の試合です。
 
あたくしは中学生の頃は”剣道部”でした。
高校時代が”リーダー局”。「なんだ?その”リーダー局”って」と思われる方も
いますよね。まぁ、分りやすく言えば”応援団”です。(笑)
 
なぜ?”リーダー局”なのか?は分りません!(笑)
当時は、「なんで、応援団ではなくリーダー局って言うんだろう?」と漠然とは
思っていましたが、あたくしも周りも「まぁ、いいっか。」的な感じでしたね。
 
私たちの地域は「中空知」なで、まずは市内大会から始まり、順次隣接する
学校との試合になります。あたくしが中3の時の”剣道部”で西中のライバルは新城中で、双子の”荒井兄弟”と猪突猛進型の”矢口”がおりました。
 
個人戦では私や同じ中学の”島倉の信ちゃん”を含めて、この五人が主に
1位~3位を争っていたと思います。団体戦も西中と新城中が常に優勝を掛けて
戦っておりましたね。
 
高校の”リーダー局”は野球の応援のみなので、野球部の勝敗次第で応援に行っており、
団員と言うか局員も中々多かったですね。2年生になると運動神経の良いのは
ラグビー部やサッカー部と掛け持ちをしながらやっていました。
 
私は「嗚呼!!花の応援団」が好きで、応援団に憧れていたので
中学の時から”応援団”(こちらも掛け持ちOK)なんぞをやっていて、高校へ
行くに当たり何の躊躇もなく入りました。本当は大学へ行っても応援団に
入ろうと思っておりましたが、担任の先生が「お前の頭じゃ無理だ」と、今なら
問題発言になりそうですが、当時は「まぁ、そうだよな」と激しく納得して就職しました。

 
本気で全道や全国を狙ってる常連校とは違って、ある意味ゆるく楽しみながら
やっていたのですが、まぁ、それはそれでね。(笑)
 
 
でも、当時はあまり意識していなかったけど、学生生活っていいもんですよね。
「戻れるな何処から戻りたい?」などと同級生と会ったら話すのですが、
皆は中学や高校生で、中には戻らなくていいなんて何とももったいないことを
言うのもいます。(女子に多い)
 
私は、小6か中1ですね。「なぜ?」って?
それは分りませんが、自分の中では一番良い時代だった気がするからです。。。。。

生活館

  • 2019/05/01 00:49

昔は今ほどG・W何ていうのは大型ではなく、だからなのか?
あまり意識していませんでした。なので、G・Wに何をして過ごしたのか?
なんてのは記憶にありません。
 
ただ、生活館とかに釣り道具などを売りに来る人がいて、釣りが好きだった
私は大人たちに交じって見に行ったものです。あと、同じ生活館では
中学生か高校生のお兄ちゃんたちが卓球をするスペースでバンドの練習を
やっていて、いつもそこから「ブッ、ブッ、ブッ~♪ ブッ、ブッ、ブッ、ブッ~♪」と
言う聞こえて来ました。不思議だったのが、その音は毎回同じ所で演奏が止まり、
また再開するのですが、「ブッ、ブッ、ブッ~♪ ブッ、ブッ、ブッ、ブッ~♪」で止まる。(笑)
 
なので、音楽やバンド活動とは無縁でしたが、その響きだけがずーっと残っていて
数年前に偶然にテレビから流れて来て「あれ?」と思い、実に40年経って
誰の何の曲が分りました。(笑)
 
最近話題の”クイーン”も同じ時期に活動していてみたいで、きっと全国のバンド
活動をしていた少年や青年達が夢中になって弾いていたんでしょうね。
でも、しかし、まさか炭鉱町の西芦別の生活館などと言う場所で演奏されてる
なんて思ってもいなかったでしょうね。しかも、同じ所だけ。(笑)
 
あっ、そう言えば小5の時に釣り道具を見に行ったら、どこかの”おじさん”が「ズボンが
破れてるから見てくれ」と言うので、見ようとしたらその瞬間に「ブッ!」と勢いよく
おならを浴びせられました。  ったく、炭鉱マンめ・・・・・。(笑)

不安と期待・・・・・。

  • 2019/04/01 00:07

短い春休みも終わり、いよいよ新入学や新学期が始まります。

小学から中学へ上がる生徒は不安と期待の面持ちで、進級する生徒は

「誰とクラスが一緒なのか?担任の先生は誰なのか?」と言った感じで

ドキドキ・ワクワクしながら学校へ行きます。

 

各教室の廊下にある掲示板に担任の名前とクラスメイトの名前が

「あいうえお順」に張られています。仲の良い友だちと一緒でホットする生徒や、

その逆で残念がる生徒。私なんかは好きな子の名前があるか?ばかり気にして

いましたね。2クラスしかないのに、その願いは殆どかなえられず。(笑)

それでも子供たちは2、3日で仲良くなるし、気持ちの切り替えが早いです。(笑)

 

今まで上級生が使っていて全くとっていいほど親しみの無かった教室の場所が、

新鮮でしたし、何かしっくり来ないのですがそれも二週間もすれば慣れます。

今まで自分たちが居た教室には新入生や後輩たちが居るのもすぐに見慣れた

光景になるんですよね。

 

炭鉱が斜陽して行っていたのと、丙午だったので余計に生徒数が少なく

小学、中学と2クラスでした。なので、全員知っていましたし、何だかんだと

話すことが出来て良かったです。芦別小や中学は何クラスもあって「いいな~」

とも思ったこともありましたが、今となっては2クラスで良かったかなと。

 

高校は四クラスでしたが、機械科と電気科に交友関係も分かれますし、

どちらかと言うと同じクラスでの付き合いが多かったと思います。

それでも生徒数が少なかったですね。まぁ、男ばかりだったのもあります。

普通高はA~Gまであったとかで七クラスもあり、しかも男女共学と言う

工業生にとっては羨ましい限りで、その反動で妬みや嫉妬心でしたね。(笑)

 

山間の芦別の春の香りがとても好きでした。。。。。

https://www.youtube.com/watch?v=PiX7JAiVVRw「春よ、来い」

1985年 ある春の日。

  • 2019/03/01 00:34

なぜか?一番近いはずの(と言っても34年前)高校の時の卒業式が
ほとんど、いえ、全くと言っていいほど覚えていません。(笑)
 
3年生は一足早く春休みになってから卒業式だったかな?そのまま、
卒業式直前まで学校へ行って卒業式を終えたのかな?今度、同級生に
聞いて見ようと思いますが、きっと期待は限りなく薄いですけど。
 
ただ、高校の卒業式を終えると既に車の免許を取っていたので、
家の車(私の場合は兄貴の車)が乗れるので、各人、それぞれが芦別を
出るまで遊んでいましたね。それは残り少ない芦別と学生気分を満喫し無理矢理に
でも思い出を残しておこうと言う感覚でした。(笑)
 
卒業式と同時に芦別を出る人もいましたが、一週間目、二週間目と出て
行くのが殆どで、「明日か~。よーし!今日は思いっきり遊ぼうぜ!!」と
そんなのが徐々に増えて行き、比較的遅かった私は寂しい気分でしたね。
 
私は、3月末に札幌へ行く予定だったのですが、3月の末頃には居るのは
地元芦別に就職する友人ばかりになっていました。
 
その中でも保育園から高校までクラスは違えど一緒だった”進藤君(シーロー君)”
は、地元に就職だったので最後まで遊んでいました。しかし、そんな私も
翌日に札幌へ行く日になり、二人して車を運転し滝里の先辺りまでドライブしました。
芦別へ帰って来る時に片側一車線なのに、対向車が来ないのを見計らって並行し

顔を見合わせて爆笑しながら最後のバカをやったりして芦別へ帰ってきましたね。
 
でも、お互いに心の中では「これで最後のバカだな~」と思っていたのが
痛いほど分った、1985年春の日でした。。。。。

芦別を離れる時は両親と芦別駅から札幌へ行きました。芦別の街並みと自分の住んでいた家、そして見慣れた母校が過ぎ去るのと同時に過酷になって行きました。https://www.youtube.com/watch?v=F306Vunwnc4

歌詞とは違って、とても良い想い出でした。

15分ほどのひと山越えただけで・・・・・。

  • 2019/02/01 00:00

やはり、芦別市や上芦別と西芦~頼城方面の地区は違います。
同じ芦別市だけど生活環境が違う。そう、炭住だからかも知れないけど
独特の雰囲気を持っています。
 
僕ら西芦~頼城方面の人間たちが芦別げ行くのは普通に行きますが、
芦別や上芦方面からは西芦~頼城方面へ来る人は少なく、来たとしても
「あっ、違う所から来たな!」と直ぐにわかりました。(何となく違和感を感じます)
 
また、西芦~頼城方面から芦別へ行くのはちょっとした都会へ足を運ぶ
感じで、親などはお洒落などをして行くし、子供たちはワクワクして妙に
はしゃいでいましたね。
 
ひと山、と言っても道路(昔は鉄道も)が整備されているので、西芦は
啓南経由でなければ15分ほどで行きますから、半日とか一晩かけて行く
ような場所でもないのですが、見事にひと山越えるか越えないかで生活圏が
異なるんですから、今にして思えば本当に不思議です。
 
そして、中学まではその地区ですが高校になると芦別か上芦へと行動範囲が拡がり、
同時に生活圏も広がります。それから、高校を卒業し都会へ行きさらに生活圏が
広がって来ました。その度に少しずつ大人になって来たのだと。
 
一時、都会へ出て専門学校や大学等で違う地方の生活圏の友人ができ、
恋愛もし、就職をし、結婚をし、子供に恵まれたりと、いつしか地元のことなんか
すっかり忘れてしまっている自分がいたりと。
 
で、50歳を過ぎて、段々と親や親戚や友人たちが寿命を終えることが増え来て
ふと、生まれたり、育った郷里を懐かしく思えてきます。
 
年老いて記憶が薄れていき子供のようになっていく親を見て、複雑な思いと
同時に自分を育ててくれた親と郷里に感謝し、懐かしくも遠い過去へ思いを馳せます。
 
そう、帰るべきあの場所へ、海を知らない鉱山の町へ・・・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=dcEjdTMdZiA&index=1&list=RDdcEjdTMdZiA


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