エントリー

雪化粧

  • 2020/12/01 00:17

芦別は盆地で、その奥へ行く山間にある西芦別や中の丘、頼城などは
夏はクソ暑く、冬はクソ寒くしばれる町でした。
 
何かの用事でたまに冬に帰ると、夜は本当に寒い。また、暗く静けさの中に
あるので、余計に寒く、しばれると言う表現が似合います。ふと思います、
「こんなに寒かったっけ?」と。きっと、子供は風の子と言うくらいだから、
今以上に寒かったけど気にしてなかったんでしょうね、きっと。
 
今にして思えば風呂にドライヤーなどと言うハイカラなものはなく、
「よく、濡れたままで家まで帰っていたよな」と自分でも感心します。
風呂から出て2分程で髪の毛は凍ります。それでも、子供たちは手ぬぐいを
ブンブン回しながら凍らし剣に見たてて、はしゃいでいたものです。
 
街灯や月明りに映った雪が深々と落ちて来るのがとても神秘的で好きでした。
しかし、子供たちはそんな情緒的な感情は直ぐに忘れてしまい、「神様のうんこだ!」
と言い、口を開けながら次から次へと落ちて来る雪を夢中に食べたものです。
 
最近、そんなことをやってない以上に、そうやって雪を見てないな~と。。。。。

上の風呂、下の風呂、六丁目の風呂

  • 2020/11/01 00:03

職員や商店街の人たちとは違い、一般の坑夫が住む炭鉱住宅には
風呂がないので、3つある浴場の内の近い風呂へ行きます。
私の場合は1条五丁目だったので三条六丁目にあった風呂へ行っていました。
 
15時から21時位までやっていて、小学生は18時半、中学生は19時半まで
だったと思います。たまに、何時も行く風呂とは違う所へ行くともの凄くアウェーを
感じて、緊張したのを覚えています。あれって、何時も行くホームに違う風呂から
来ると何となくわかるんですよね。そう、何となく人の目を気にするのが。
また、炭鉱の人でない人が来るとこれもそのぎこちなさから分ります。

上の風呂は「じいじとばあば」が老人クラブの管理人で住んでいたので、その道路を挟んだ
目の前にあったのでたまに行くことはありましたが、下の風呂は炭鉱住宅に住んでいた
約十三年間で数回と数えるほどでしたね。
 
そこそこの風呂場の管理人さんや来てる人の特徴がありました。
六丁目の風呂場の管理人さんは、元々は中の丘スキー場の管理人さんが
私が小6か?中1の頃に来ました。不思議なもので、その前の管理人の方が
長かったのに顔を思い出せません。確か、たまにおばさんも座っていたと思います。
そうだ、その中の丘スキー場から来た管理人さんは、同級生の女子からは
「エロ管理人」と呼ばれていましたね。(笑)
 
今は、家に風呂はありますが殆どシャワーで済ませているので、風呂へ入る機会は
温泉に行った時くらいです。そうだ、風呂場には三、四人も入ればいっぱいになる
薬風呂なるものがあり、そこに入ると体がヌルヌルとして子供心に「なんか、体に
良いんだな~」と思ったものです。
 
一体、あれは何を入れていたんだろ・・・・・。

サム・テイラー

  • 2020/10/01 00:36

昔、家にはビクターの大きなステレオがあり、
”おやじ”が良く、ヘッドホンをして聴いていました。
←まさしくこれ。
 
特にお気に入りは”サム・テイラー”と言うテナー・サックス奏者で
日本の歌謡曲や演歌などの曲を録音したLPもあり、子供心にも
「中々、うまいな~」と思ったものです。
 
ビクターと言えば、ビクターの家電製品を買うと首をかしげた犬の
置物が付いて来て、私の家は小さい犬から大きな犬まで八匹?
くらい飾っていましたね。
 
今とは違って情報が極端に少なかった時代に”おやじ”は何処で
「サム・テイラー」を知ったのかな?と思います。すると、1974年の
「第28回NHK紅白歌合戦」にゲスト出演したとあったので、多分、
その時に知って好奇心旺盛だった”おやじ”が関口楽器店へ行き
買ったんだと思います。
 
きっと、関口楽器店に居た双子の店員さんのおねーさんに自慢げに
”サム・テイラー”のレコードをレジカウンターに出したんだろうな~。(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=4vRFMRMMyN8

「基地」~夏編

  • 2020/09/01 00:13

二条六丁目の生活館のあった公園は、その辺に住んでいる子供たちと
隣接している「第二売店」への通り道です。
 
そこの一角に草むらがありまして、そこに友達数人で「基地」を作ろう!
と言うことになり、友達数人とで草を足したりして何とか基地らしくなり、
そこで漫画の本を持ちこんだりして、ウルトラマンの隊員のような口ぶりで
楽しんでいました。
 
ところが、次の日に行って見ると、殆ど壊れていて友だちと「誰かにやられた!」
となりましたが、考えてみると夜中に雨と風が強かったので、きっとそれだった
のかな?と半信半疑でしたが、それを作り直す気になれなくて、そのままでした。
 
けど、ドーム型で中々満足していましたね。
男の子は「基地」と言う言葉に弱いな~と、未だに自分の好きなスペースの
「基地」が欲しいな~と思いますもんね。(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=THR1DS22_j4

お盆と盆踊り

  • 2020/08/01 00:07

8月の夏休みも終盤になると最後のイベントが「盆踊り」。
小さい町でも何ヵ所かに櫓が立ち、ちょうちんが並びます。
小さい時には浴衣を着て下駄をはいて行ったものです。
 
小学生ではTシャツ短パンで友人と連れ立って行き、最後に
鉛筆とノートをもらいました。中には違う列に並んで二回目の
鉛筆とノートをもらっている子もいましたね。(自分もですが)
 
中学になる頃には、ちょうどませて来る年頃なので「盆踊り」で
踊るようなことはしなくて、単純に女の子をからかいに行ったり
その辺を友人たちと自転車に乗って遊んでいました。
 
高校生ともなると「盆踊り」は西芦ではなく、芦別の方へ出かけて
それこそ高校の友だちの家で遊んだり、よく行くマスターの居る
スナックで飲んでいましたね。(笑)
 
子供盆踊りと大人たちが踊る北海盆踊りがあり、芦別へ行くと
千人踊りなんて言う、女性たちが花笠を被って「ここぞ!」と言う
感じで踊っていました。(笑)芦別のメイン通りでもある駅前通りを歩行者天国
にして踊るので中々の迫力です。また、芦別川のほとりで花火大会も
やるのですが、これも小さい時には見に行きましたが大人になると
そんな人混みよりも友だちと遊ぶ方が多くなりました。
 
札幌へ行って、まだ実家が芦別にあった時には札幌の友人と連れ立って帰省し、

盆と正月だけ賑わう繁華街で朝まで飲んでいましたね。

今は芦別市自体も廃れて来ていますし、他の町も過疎化がさらに進み
どんなお盆を過ごしているのでしょうかね。実家もないので、お盆に行くことも
なくなりましたが、今度同窓会でもしようと思っています。。。。。

衣替え。

  • 2020/07/01 00:05
7月になると、男子は学生服から白いワイシャツになり、
女子は黒だか紺だかのセーラー服から夏服の白いセーラー服になって季節を感じたものです。

この時期の楽しみと言えば、白いセーラーからすけて見える背中のゴムバンドでした。
やはり、衣替えと言ったもんで、白と半袖で夏を感じたものでした。

しかし、中には強情にも冬服仕様の男女も居て何だかあつぼったい光景でした。
3年生になると、特に男子はそのまま学ランに前ボタンを全開にしていました。
今、西中時代の先輩と同級生が居る店で飲みながら話していました。(笑)
 
で、そんな子供たちが旅待った駅です。








https://www.youtube.com/watch?v=bVyJDINH3NI

考えてみると・・・・・。

  • 2020/06/01 00:10

今年の前半は新型コロナウィルスと言う”チャイナの武漢”発症の訳の分らない
ウィルスが流行して、しまいには「非常事態宣言」我で終い世の中”自粛”一辺倒に
なってしまい、会社や学校も在宅勤務や授業も課題を家で行い、各施設や百貨店
などの人が密集する場所は軒並み休業や時間を短縮するようになりました。
 
それは我々飲食店も例外ではなく、ススキノも殆ど休業で他の地域の店も休業もしくは
時短営業で昼から酒類の提供は19時までと言う制約の中で、慣れないながらも
お弁当やテイクアウト売りなどをして頑張っていました。
 
でも、こうしてふと振り返ると「一体、今回の騒動はなんだったんだ?様々なイベント、
特に学生の大会などが軒並み中止に追いやられてしまい、本当にそこまでするような
騒ぎだったのか?」とね。
 
そうした時に思ったのが、私たちの小さい時だったらここまで騒動になっていたかな?と。
今はSNSが盛んなので、世界中のことが瞬時にわかるのはいいことだけど、却って
そのお蔭で余計な情報が増して、人間の営みや社会生活がとても窮屈に感じます。
 
炭鉱住宅に住んでいた当時は、水洗トイレではなくボットン便所で、中には外に
便所がある町内もあったし、炭鉱風呂だって決して衛生的でもなかった。
そこらじゅうで遊んでいる子供たちも常に汚かったし鼻を垂らしていて、その辺で
おしっこもしていて、うんちもしていました。隣の組が風疹やインフルエンザなどが流行って
学級閉鎖になったら心底悔しい思いをしたもんです。
 
あの当時なら、そんな騒いでいる余裕もないし、誰も気にしていなかったんだろうな~。
と思うと、今よりは不便だったかも知れないけれど、精神的にはとても満足していましたね。

”こんさん”

  • 2020/05/01 00:45

小学の用務員さんに”こんさん”と言う方がいまして、皆から「こんさんのおじさん」と
呼ばれて親しまれておりました。今にして思えば50代後半か60代前半?だっと
思います。なんせ、小学生から見ると昔は50歳以上は中々のお年寄りに見えたし、
その頃の50歳以上の方たちも老けて見えましたからね。
 
で、その”こんさん”は長身で猫背気味でしたが、いつも早歩きでせっかちなイメージ
があり、そしてけっこう厳しくて何度か怒られました。(まぁ、いたずらしたからだけど)
 
”こんさん”は戦争時代は兵隊さんと聞いていました。
だからなのか、一度グランドにある鉄棒の一番高いのでグングンと大車輪をしてるのを
見た時に「”こんさん”スゲッ!!」と友達と騒いでいましたね。
 
12月のある日に、小学の先生たちの忘年会がありました。
その日の西芦別は雪がかなり降っていた記憶があります。
 
「”こんさん”が行方不明になった」と狭い炭鉱町はその話題で持ちきりになりました。
何でも、忘年会の後に”こんさん”は一人で家路に向かったのを見たのが最後だと。
あちこち探しましたが”こんさん”は見つかりませんでした。
 
それから数ヶ月が過ぎ、”こんさん”のことを忘れかけた雪解けの初春に
「”こんさん”が見つかった!!」と言う知らせが。
 
どこかの炭鉱住宅の軒先で既に亡くなった”こんさん”が見つかったのです。
病気や炭鉱事故以外で人が死ぬなんて滅多にないので、子供心にショックでした。
 
”こんさん”の息子さんが一度、教育実習で来たことがあります。
その息子さんは先生になったのでしょうか?もし、なっていたとしても定年なっています。
 
そんな『想い出のあとに』でした・・・・・。

入学祝い

  • 2020/04/01 00:00

高校の入学祝いだったのか、社会人になった時かは定かでありませんが、
入学祝いに従兄のお兄さんにボールペンとシャープペンシルがセットになった
ものをもらいました。
 
何とも昭和を感じますが、贈る側としては「大人になったんだぞ」と言う意味で、
もらう側は「少し大人になる準備」の気持になったものです。今はパソコンや
スマホが主流になり、紙に書くなんて言うアナログではないのでボールペンや
シャープペンシル、ましてや万年筆なんて贈る人も少ないと思います。
 
しかし、贈る側ともらう側の情緒を感じるやりとりがなくなり寂しさも感じますが、
これも時代の流れなのでしょうね・・・・・。

芦別を離れ35年、色々とあるけど皆頑張ってるな~。

  • 2020/03/01 00:00

今年の1月に一つ上の地元芦別の先輩の奥さんが亡くなりました。

で、先日地元の一つ上と私と同じ年で集まり「激励会」なるものを

行いました。同じ芦別ですが、それぞれ地域が違い一度も同じ学校では

なかった人や、地元では(と言っても、も35年にもなりますが)特に親しかった

訳ではなくても、『芦別』と言う絆が時を経てもこうして集まり仲間を思い

やれるんだな~と思うと感慨深いものを感じた次第です。

 

当時は皆10代で若く意地や見栄を張ってツッパッテいたのに、今では

50代と言う「いいおっさん」です。(笑) その昔は集まりは集まりでも

結婚式などと、どちらかと言ったら祝いの席でしたがこの歳になると今回の

ように見送る方の集まりが圧倒的に多くなりましたね。

 

『炭鉱』と言う産業の栄枯盛衰の中で生まれ育ち、今はそんな所で育った

ことなんか素知らぬ顔で札幌の街で生きています。しかし、こうして地元の

人間が集まると『郷愁』に慕っている自分がいました。

 

1984年(昭和59年)に芦別を離れ、こうして今でも芦別の絆を保ち

会えること、会えるようになったことにある意味つくづく年月の重みを

感じます。きっと、それはいくつになってもあの頃に見た街並みや山や川、

三角山や駅前通り、中央バスやバスターミナルなどと言った郷土の景色たちが

それぞれのまぶたの奥に共有されているからなのでしょうね。。。。。

 

https://www.youtube.com/watch?v=dcEjdTMdZiA